水煙を彼に向かって吹き付けた、私は不遜な生き物なので。
だのに彼はそれを払うこともせず、またまばたきのひとつもせず、にこりと小さく笑って藤色の瞳で私を見つめていた。
私は恐ろしくなってまた水煙草を吸った。ストロベリィとモルヒネ。探しても見つからない君のストマック、溜まっていく刃の破片。悪いものが肺いっぱいに広がる、心地良い。できることならこのまま死にたい。
「ビョーキになるかな」
ぼやいた。
「病気ですか」
うん、と頷く前に、
「その時は俺が貴女の肺に手を差し込んでご覧に入れます」
悪いものは全部取り除いて差し上げます。大丈夫です、手袋は勿論外しますよ。痛みも伴いません。だから心穏やかに安心して。
怖いな、誰かお助けを。
だから私は静かに水煙の狼煙を上げる。
一体何が、こころおだやかに、なの?
一体何が、あんしんして、なの?
そんな異国の言葉が、店内のネオンと古ぼけたジュースボックスから流れる嗄れた洋楽と共に左耳を通って抜け落ちてゆく。
『バチが当たるよ』
遠い昔、何か悪いもの、それこそビョーキのようなものに指を差されてそう言われたことを思い出した。
あの時も彼は今と全く同じ瞳で、
『撥ねますか』と一言問うたのだ。
良かった、ちゃんと止めることができて。
だって見て、この私達の浮き様を。隅で吹かす水煙草の灰色。囲われる、カナリア達のお喋り。静かなダンスパーティー、スポットライトは他の客だけに向けられる。
「ここはドレスコードが必要でしたか?」
今更だなあ。
「心を読まないでくれる」
読んでませんよ。
「そんな顔をしておられたので」
「貴方にドレスコードは必要ないよ」
くすくす。
そう言う貴女も。
「主はいつも柄々ですものね」
机の下で私のスニーカーが笑い続ける彼の脛を蹴った。言わば、べんけいのなきどころ。
でも困ったことに弁慶は人だけれど、うちのは刀だからそんなの全然効いてはくれないのだ、全く。
ご覧、この離れ離れを。俗世からの乖離を。置いてかないでって走らない私が悪いの。塩を舐めてグラスに入ったナッツで全て解決すると思っている私を。灰皿で頭を殴れば全てからさよならできると軽く思っている羽根のような私を。
その羽根の根元を彼が掴んで離さない。
恐ろしいことこの上ない。
「逃げ出したい」
「帰りますか」
「嫌」
彼の口にアーモンドを押し込む。
優しい目をしてよ、ねえ、もっと。
「帰りたいよ」
「では逃げますか」
うん、
「それもいいね」
咀嚼音、ぱりん。
天井から首を吊っているラベンダーが彼と重なって今夜は嫌に香る。
金はテーブルに置いてゆく、釣り銭はいらない。六文銭に取っておきなね。私達ははやる夜の街を手を繋いで、歩く歩く。
「船を漕ぐのは貴方がいいな」
できることなら。
すると肩をすくめて、
「俺は神ですので今回ばかりは主のお役には立てないかと」
管轄外ですので。
次は私が肩をすくめる番。いつもそれだね?
「例えばの話だよ、例えば」
だってほら。
「貴方が渡し守だったらお金は絶対に断るし、それに私以外は乗せないでしょう」
「そんなこと至極当然です」
全く俺の主は何を言っておられるのやら。
くすくす、くすくす。
「あと私、貴方があくせく働いているところを見たいんだよね」
「あくせく?」
「私の為に一生懸命船を漕いでほしいということ」
その後ろ姿はきっと心底笑えるだろう。
そして心底安心できるだろう。
頼もしいだろう、怖くなんてない、それを私はじっと見ている。向こう岸になんて、いつまでも着かなければいいのにと考えながら。
「やっても良いですが…」
『やって』やっても良い、みたいなニュアンスに座礁して彼はまた私に酔いを回らせる。
「向こう岸に着いても俺は貴女を降ろすことはないでしょう。そのまま船を反転させて、俺はまた元の岸を目指します」
それでも良いですか。
有無を言わさないその横顔があまりにも優しかったから、私はそれを見上げたまま。誰かが私にぶつかりそうになるたびにこの手を引き寄せて私を守る。
「ねえ。そんなの、良いのかな」
きっと河は荒れてしまうよ。
私達、流されてしまうよ。
バチが当たって私は骨になってしまう。
それに何より、貴方の後ろ姿が見えないじゃない。
「大丈夫です、主。
なぜなら俺は、神なのですから」
ねえ、そうでしょう。
何も言えない。がやる夜と煙草の街。
そんなにはしらないで。そんなにハウらないで。だって私はこの世に何も遺さない。
だから、まあ良いか。貴方になら、貴方だけなら、私の背中を見せてやっても良いか。
そう思った途端、胎の月が痛み出す。
私はうざったくて喉を潤す。
助けて、助けて。
「すくって、長谷部」
月は満ちると赤く光り、
痛い、痛いと泣き始め、
馬鹿な私の幼い夢が、毎夜毎夜と滴り堕ちる。
先日少し良い靴と鞄を買った。
届いたものを私は白い椅子に飾り付けて、時間があれば私はその前に座り込んで悦に浸っていた。
幸せだった。替え難い、この上ない幸せ。だってそれらは私のかみさま。尊ぶべき、綺麗なもの達。でもそれがどうやら、彼の癪に触ったようだ。
「まるで神に祈るようですね」
「神?」
まあ、うん、そうだね。だって白い椅子に降り注ぐアッシュ、映える艶めき。美しい、私だけの悦。
その前に長時間座り込み上目遣いで酒を飲む。なるほど、確かに祈っているようだ。
「私の神は貴方だけだよ」
背中でクロスの裏ピース、ごめんね。
「まあ信じてないけど」
「全く酷い言い様ですね」
違うったら。
「神様としては信じてないけど、貴方としては信じているということ」
これは本当。だから白旗、両手を掲げる。私は貴方を信じていない。見えないものだけを信じている、財布の指輪は意味を成さない。
だのに私の神は眉を顰めて、
「それならまあ、良いですが」
よく分かってない顔。今回は分かりやすい。いつもこうだったら良いのに。世界一可愛い私だけの付喪神。
最初、遠い昔、初めて出会った頃はもっともっとよく分からなかった。ただ、満開の藤の下で振り返る軽装の帯がひたすらに美しかっただけ。私達、金木犀の金粉に嘘や罪を隠して誤魔化していただけ。
金色の雪に彼の藤色はよく映えた。だから見透かして、そして見透かされても、私達ぼんやりとその時の関係が心地良かったのだ。
そして気付いたら手籠にされていた。神というのはやっぱり怖いものだなあと思い知ったけれど、それで彼が少しでも遠回りにならなくて済むのならまあ良いかと思えた。
実際それは百舌鳥の喰いかけほどの拙さで表現された。だけど、だからこそ私は酷く嬉しかったのだ。
「貴方の言葉は寄木細工」
開けるには正しい手順が必要。一度順番を間違えれば、貴方の言葉が私の心に届く頃にはそれは酷く変形してひずんでしまうの。嗚呼。かごめ、かごめ。
今だって貴方のことはよく分からないけれど、私はまあそれでも良いと思えているの。
それは私が大人になったからだとか、億年周期の記念日だとか、そんなことは全然関係なくて、
「ただ夢現の表裏に堕ちただけ」
ただ、それだけ。
だから今ではもう何も考えられない。貴方の居ない暁が、どんなに恐ろしいことだろうかとか。
優しくなんてなりたくない、可愛くなんて遠に忘れた。私は泣き散らし、流行りの前髪?このぱつん、切り揃えた黒髪で許されなくたっていい、願い下げ。今のままずっと怒ってたい。
だから私と貴方は固く手を繋いだまま、私はスニーカーでネオン街に棲む小さなビョーキ達を蹴飛ばし歩く。空き手にはかんかん、文字は読めない、美味しければ何でも良いから。美しければ何でも良いから。私と貴方のこの狭い世界だけ、守られてさえいればいいから。
「酷いおひと」
そう貴方は宣う。
「貴方も大概」
だから私は論う。
名さえ知らない酒を飲む、白い椅子が反射して私は容易に嫌になる。眩しい。
こんな私の隣に侍らせる、
私の近侍は人で無し。
「非道い神様」
そう私は嘲笑。
「貴女も大概」
だから貴方の目が見れない。眩暈。
だから私は今夜も月を滴らせる、
神を侍らせたヒトデナシ。
「要りませんよね」
その日、いつも通りの朝、いつも通りの休日。焼かれるベーコンが焦げてゆく。カーテンレールに吊るしたサンキャッチャーがゆらゆら、ここは私達だけの帝国。
そんな嘘みたいないつもの暁の中、彼は普段と変わらぬ声色でそう言った。
「要りませんよね」
確認するようにもう一度そう言って、
気付くと私の下腹部は紅くずぶ濡れになっていた。
腹を裂かれた。
胎を奪われた。
だのに私は曼珠沙華のようで美しいと思ってしまった。なぜなら私はビョーキだから。
「私のお気に入りを汚したね」
「洗えば落ちます」
お気に入りの、紫色のシャツ。貴方の瞳の色に似ていると思って買った藤色の柄シャツ。
両手で腹を押さえる、貴方の瞳が紅く染まってゆく、やめて、やめて。血が止まらないのに痛みは微塵も感じないところが酷く優しくて彼らしい。
「私はちゃんと痛くても良いのに」
「主を傷付ける訳にはいきませんので」
「奪うのは良いのに?」
「傷付けるのと奪うのは違いますから」
よく喋るな、鉄の癖に。その片手に握られた私の血濡れた臓腑。紅い手袋。それじゃあ決闘の申し込みはできないね。
さっき見たはずの朝のニュース、ちんけで安っぽい占いを私はもう忘れてしまった。私の今日の運勢は、一体何番目だっただろうか。今日の恋愛運は上々?ラッキーカラーは真っ赤?
私と貴方がずっと一緒にここに居ること、
全部星座のせいにでもできたら良いのに。
「よく見せて」
さっきまで私の中にあったものを。
「もっとよく見せて」
彼は宝石を扱うようにそれを丁寧に両手に広げて私に差し出して見せる。それを私は服従するように覗き込む。へえ、と思う。
いつかの眠たい午下り、給食後おんなのこだけが集められた教室で歳上のおんなから習ったことを思い出した。ホケンタイイクの教科書は嘘をついていなかったのだ。やっぱりああいう形をしているものなのだ。
酷く醜い。あの時もそう思った。
気持ちが悪いと、そう。
腕や足、髪の毛、瞳、私の全てに至るまで私の姿を成しているのに、その腹の中に据えられたものだけは異物のようで気持ちが悪かった。まるで肉の塊、血袋の中に、唯一機械仕掛けの歯車が埋め込まれているような、そんな違和感。
「崩れちゃった」
かつてのあの日、初めて満月になった日、私は悲しくて幼い頃遊んでいたつみきを押し入れの奥から探し当てた。そしてただ黙々と積んでは崩れ積んでは崩れ、私はただそれが悲しくて嫌で、流れ出るものをずっとそのままにして崩れるつみきを幾度も積んだ。
紺色のプリーツスカートの下、月からの使者は容赦無く歯車を回すから私は捩れるような痛みを味わい、私は研がれた包丁で幾度も自らの腹を捌きたいとそう願っていたのだ。
だって、何も残せないのに。
だって、何も遺さないのに。
持っている意味なんて無いじゃないか。
だから、
「ありがとう」
私は彼にそう言った。本当に、心の底からの感謝だった。
「いいえ」
彼は優しくそう応えた。
こんなに容易く解放された。
こんな簡単に、私は私だけで居られるようになった。
痛みの無い出血、指先が冷えて膝から崩れたのを彼が支えた。右から左に抜ける耳鳴り。
「処置いたします」
「うん、お願い」
駄目だね、やっぱり。
何がです。
私は人だから。
主は人です、何を今更。
「自分で止血もできないなんて」
私は口元だけで笑った。
彼は軽々と私を膝の上に乗せ、血濡れた手袋を口で挟んで手荒く外した。その際に付いた私の血は彼の唇によく似合っていた。
「苦しくはありませんか」
「うん、大丈夫」
「優しくしますから」
「うん、信じてる」
そんな緩やかな応答を交わしつつ、彼は薬指で私の裂かれた腹をなぞった。傷が塞がり血が止まってゆく。私が綺麗になってゆく。私が私になってゆく。
「貴方の素手、久しぶりに見たな」
やっぱり好きだよ、その節ばった指もきちんと切り揃えられたその細い爪も。
「光栄です」
彼は笑って言った。今周期の貴方は随分優しいね。
彼に胎を奪われて、傷を素手で触れられて、私は貴方とひとつになれた気がした。それは酷く嬉しいことだった。
「主」
「なあに」
「今の貴女の唇は藤色に染まってとても美しいです」
死にかけの惨めな人間、ノイローゼのチアノーゼ。そんな私に彼は美しいなどと言う。
「俺の瞳と同じ色ですね、主」
そう。
ええ。
「嬉しいの?長谷部」
無論。
「この上ない喜びです、主」
「そう。貴方が嬉しいなら、良かった」
良かった。貴方が笑っていて、良かった。
この通り、私達はビョーキできっと誰かから蹴飛ばされる存在なのだけれど、私は私のかみさまに囲まれて私だけのかみに囲われて、この帝国に籠城する。やはりそれには朝焼けが相応しいじゃないか。
血塗れになった床を私達は水を掛け合いながら遊びという名の掃除をした。
血を吸ったタオルを絞るとピンク色が滴り落ちて可愛かった。なんだ、私だってまだ可愛いところあるじゃないか。
「私、可愛いね」
「貴方は可愛い人ですよ」
迷いも無くそんなことを言うので、薬指に付いた血を彼に舐めさせた。
「貴方も可愛いよ」
怪訝な顔。
「それはよく分かりません」
私は笑う。
「分からなくて、良いの」
そして私達は、先程まで私の中にあった月の歯車を丁寧に紙にくるんで私の部屋にあった一番良い箱にひっそりと納めた。
月の歯車はもう死体になっていてどんどん、どんどんと硬くなってゆくのだった。
私から離れたものはもう私のものでは無いから、私は死体になってゆく歯車がほんの少しだけ可愛相に思えた。
けれど彼の手で私の月は死んだのだ。
それだけは、心底羨ましいと私は思った。
私達は焦げたベーコンと半熟の目玉焼きを食べて、ベッドに横たわり少しうたた寝の休憩をして、それからそっと外の世界へと出かけた。
私のところへ永遠に回覧板は回って来ない。落としたピアスも戻ってこない。一階ロビーのコルクボードはもう何年もずっとそのまま。月の死体は私が両手で抱えて外へ出かけた。
落とさないように、堕とさないように。祈りながら胸に抱えて私は歩いた。その横を彼は黙って付いてきた。
まだ誰も居ない、静かな朝。自生する紫のサルビア。私に叡智は期待しないで。
「埋めるのですか」
あの時の、金魚のように。
いいえ。あの時とは少し違う。
「土の穴へ、隠すの」
だって私の月は崩御したのだから。
サルビアの後ろの陰に隠れて私は素手で穴を掘った。スコップは忘れた。誰にも頼らない、頼まない。深く、深く、箱が収まるように。誰にも見つからないように。
「私の月は誰にも見つかっちゃいけないの」
だってずっとずっと殺したいと願っていたから。
そしたら貴方が殺してくれたから。
だから誰にも見つからず、
ずっとずっと眠り続けて欲しいの。
汗をかいた。朝なのに少しだけ涙が出た。これが生きているということ?よく分からない。
そんなみっともない私を、私のかみは静かにただ見下ろしていた。けれどその瞳は優しかったから私は全然怖くなくて、見守られているのがただ嬉しかった。
だから、汗まみれ、涙目、そんな酷い顔でも
私これからを生きていけるわ。
「さようならだよ」
「さようならですか」
そう、さようなら。永い数十年だった。
月の数えが合わなくて焦る必要もこれで無くなる。焦る癖なんかが体に染み付いてしまったのは、彼と出会うずっと前、ひとりぼっちの浴槽で誰にも言えずに焦ったことがあったから。無いなんてことは決して無いから私は独りで腹を殴ったみたりした。お手軽にしては痛かった、結局は何も居ない空の胎だったのに。
「あの時は、ごめんね」
酷いことをして、痛いことをして、ごめんね。さよなら、私の紅い月。滴る堕ちるストロベリィ。
そっと黒い土を両手で被せると、何も、何も見えなくなって私は安堵の息を吐いた。これで未来永劫会うこともない。だから丁寧にお別れ。手を振るだけじゃ可愛相だから。
ゆったりと眠りについたまま、
静かに腐敗していって欲しいのだ。
「終わりましたか」
そう、私のかみが上からぼやいた。
「終わったよ」
もう大丈夫。
私は立ち上がって、ぱつん前髪をシャツで拭った。藤色のアイシャドウ。めちゃくちゃにしてくれて良かった。私が私をめちゃくちゃにする、がなる、ハウる。叫ぶ。
大丈夫。もう、大丈夫。
「後はサルビアが守ってくれる」
だって彼等は頭の良い、賢い子達だから。
私はにっこりと、彼の目を見て笑った。
よく分かんないけれど、こんな風にひっちゃかめっちゃかで良いじゃないか。
だって私達は共犯者。
約束よ、内緒。人差し指立てて、ほら言ってごらん。みぃみぃって。みぃみぃ。
「主」
「なあに」
珍しく、不安そうな瞳にびっくりする。一体全体どうしたというの?
「こんな風なことが、ずっと永遠に続きますか」
あら、まあ。私は笑う。
「随分と、貴方らしくない問いかけだね」
子供みたい。怖いの?震えてるの?
「もしかして、後悔してるの。
私の胎を奪ったこと」
彼は黙っていた。それがとても分かりやすくて私は嬉しかった。
長谷部。私は語りかける。
「感謝してるんだよ。
私、貴方に出会えたことを」
今も、そしてこれからのことも、全て。
だって貴方のおかげで私は本来の私になれた。ふたりだけの秘密もできた。これ以上に望むことなどあるだろうか。
「それにさ」
何億光年、こんなこと繰り返してきたと思っているの。
「ずっと続くよ」
私達は蜜月は永遠。
「全てが海に沈んでも、
貴方は私の傍に仕えるでしょう?」
私のその言葉に、彼は安堵したように微笑んだ。いつぶりだろうか、彼の微笑みなど。明日はきっと雹が降る。
「勿論」
彼はその節ばった、素手の暖かい手で私の手を握った。言霊だ、言葉にすれば願いは叶う。
「何処までもお供します、主」
足元の紫色が風に吹かれて揺れた。
朝陽、ビョーキ達は何処にも居なかった。秋の、豊穣の香りがしていた。野火、煙々、つばくらめは幸運の兆し。
私達は瞳を合わせて誰も居ない空き地で時を過ごした。何年過ごしたかなんてもう分からない。
きっとそのうち月を隠した場所から生えた、木のうろに私達共に取り込まれて、くすくす笑い合いながらずっと手を繋いでいるのでしょう。煙草は当分吸えないけれど、貴方の為なら我慢しよう。
「長谷部」
「はい」
何でもない、何でもないよ。
「呼んだだけ」
だから。
貴方がもしもこの先折れてしまって、
もしも異形のものに堕ちたとて、
きっと私の月が天から救ってくれるでしょう。
そして私が永遠に、
貴方を記憶で守ってあげる。
だから、長谷部。
「ありがとう」
私を、
「月から解放してくれて」
罵声も怒号も聞こえないよ。
私達、誰にも捕まらないよ。
「逃げますか?」
「逃げないよ」
だって私達、共犯者の愉快犯。
「帰りますか?」
「帰らないよ」
何処までも、何処までも、藤の甘い香り。
私達の罪を隠してくれる。
バチなんて当たりっこない。
「置いてかないで。
ずっと傍に居て」
願うことはただそれだけ。
たまに逢いにゆくから許してね、
ストロベリィを嗅がせてあげる。
だから私の月よ、さようなら。
そんな久遠を、
常しえに喰らって息をする。
私達、全てから取り残されたまま。
何もかもが煙に巻かれて、
表裏の全てが、海に沈んでも。