私達は紫を揺らし手を繋ぎ、午下りの晴れのち曇り、赤い彼らを埋めたあの空き地へと赴いた。
もうとっくに彼らは川を下りそこにはもう何も居ないのだけれど、私達が散歩する時は必ずここへ立ち寄っていた。
きっと川の岸辺の岩や水草に滞留しながらも今頃海へと辿り着き、鯨の大きさに驚いていることだろうことを願う。
「主」
「なあに」
風が吹いた。あの時と同じだと私は思った。
「何の為にあんなことをなさるのですか」
そう彼が言った。
やっぱり。やっぱり、同じなのね。
「あんなことって?」
わざとらしく聞き返す。当然分かられている、私の近侍は才色兼備。
「部屋をひっくり返して、箱に入れてはまた出して、ぐちゃぐちゃに引き摺り回すあのことです」
そうか、彼の目にはそう映るのか。あの水槽を私が尾びれや胸びれを使ってひっちゃかめっちゃか、引き摺り回しているように見えるのか。
折角色とりどりの玉砂利を均等に敷き詰めて、流木とビー玉まで備え付けて、丸いグラスひたひたに表面張力で透き通った水を張っているというのに、どうしてそれら全てを引き摺り回して壊してしまうのだろうかと。
私は正直に答えた。
「生きている心地がしないからだよ」
彼の瞳は見れなかった。消耗していた。
もう、疲れた。
「あのままだと、生きている心地がしないからだよ」
私は、赤色だった彼らの骨を掘り返し、ゆっくり、ゆっくりと砕いたことを思い出した。その骨は薄く細く、この場所で、あの墓標の上で、ゆっくりゆっくり時間をかけて粉になるまですり潰した。
手がかじかんだって構わなかった。
だってそうでもしないと、彼らが海を見れないかもしれないじゃないか。
塩の味を、深い青を、焼き付けられないかもしれないじゃない。
「そう思うと、居ても立っても居られない。
怖くて怖くて堪らないんだよ、私は」
私は、まだ多くが蕾のままの空き地で彼とふたり、なし崩し的に座り込んでいた。
言いたいことや伝えたいことが沢山あるのにな、全然、上手く言えないな。
「生きているとは、どういうことですか。
主」
また酷な質問をするのね、貴方は。
私達は三十五℃の手を握りしめた。冷たい、心地良い、ドライフラワーはここにはない。
それで良いんだ、今は貴方に何も食べさせたくはないから。
「沢山、あるよ」
分かんないくらいに。
「聞きたい?」
私の、生きている、が聞きたい?
貴方にとってはきっと、何処か遠くの異国の言葉のように聞こえるよ。それでも、良い?
「ええ、勿論」
聞かせてください、主。
迷いのない言葉に私はまた擦れ違いを感じて、それが何より嬉しくって、それをそのまま彼に手渡せたら良いのにと思った。
指折り、数える。
私は彼を愛している。深く、深く。
「あのね、長谷部」
長谷部、という名前が好きだ。
その帯留めに揺れる紫の雫が好きだ。
「生きている、っていうのはねぇ」
風が吹いて私の髪を攫っていった。
そう、例えば。
わざと何の役に立つのか分からない黒い板みたいなお皿とか、ぎんぎら柄物のシャツを山ほど買って並べてみたりだとか、
わざと長い映画を見に行って、並んでやっと手に入れたパンフレットを一度も開けずに戸棚に仕舞い込んだりすることだよ。
そう、他には。
何処でも通り抜けられる貴方にわざわざ合鍵の使い方を教えたり、腐りかけのアボカドを投げ合っては、最後サーモンと和えたものをふたりきりで食べたりしたことだとか。
黒い板みたいなお皿と木目が綺麗なプレートの違いも分からない貴方が心底不思議そうに、私が今晩のおかずに向かってシャッターを切るのを見つめていることだとか。
そういうことだよ。
「貴方に、分かる?」
少し高い石鹸をとうとう使ってしまって、貴方がなんて言うのかなんて私とっくに分かっているのにこの紛い物の頰を触らせてみたり、
苦しくなるのなんて分かっているのに、私と対極に位置する南方のくにの話を貴方にわざとせがんでみたり。
そういうことの、数々。
そういうことの、積み重ねなの。
「分かりません、主。
俺には到底、分かりません、主」
申し訳ありません、俺が不甲斐ないばかりに。
「そんなことない」
貴方のそういう正直なところが好きなのだから。それに私は、私以外のものが貴方を悪く言うのを許可していないよ。いい?
「分からなくて、当然なの。
私達は、違うんだから」
違うんだから、分からなくて当然なの。
それでこそ許し合える。
彼の震える不安げな瞳。どうしたら良いかな。私も、分からないや。でもそれでも良いと思えているの。
どうしてわざと行ったり来たりするのか教えてくれって?どうしてわざと一人ぼっちで迷子になるようなことをするのか教えてくれって?
だって、生きているってそういうことでしょう。
最初から繋いでいる手などありはしないの、そんなのは元から私の一部なのだから。
途中から繋いだから私と貴方になれたんだよ、私と貴方で居られるんだよ。
ふたりきりなら迷うことも私達楽しめるの。
「私はね、貴方に初めて出会った時、なんて綺麗なんだろうと思ったんだよ」
その霞がかった前髪から覗く、その藤色の瞳とか。その白い手袋に隠された、少し節ばった長い指とか。
貴方に触れて、貴方と暮らし、貴方と共に生きるたび、私は生きていることを知っていったんだよ。
彼が私を見つめる。今日はそんなに怖くない、藤の花のおかげかもしれない。だから心底受け止められる、その藤色の瞳を。
主。
「俺は、貴女に初めて出会った時、
剥き身の刃物のようだと思いました」
刃物!私は思わず大声で笑った。
「刃物って、刃物?」
「はい、刃物です」
剥き身で晒された、錆び付いている刃物です。
私は笑い続ける。彼は大真面目。
「もっと他にないのかな」
全く、貴方ってひとは。
「私達一応これでも今日、記念日なんだけど」
そう言うとやっと少しにやりと笑って、
「主が記念日など気にされるとは」
なあに、
「刃物のくせにって言いたいのかな」
「いいえ、滅相もございません」
ふたりして柔らかい草の上で笑い転げた。
なんだそれ、酷いったらありゃしない。乙女に向かって錆び付いた刃物のよう?口を慎め、未練の男!
「もっと良い感じのに喩えてよ」
「良い感じ、とは?」
「例えば嘘でも、花とか星とかさ」
もっと色々、あるでしょう?
「主は嘘はお嫌いでは?」
嘘は嫌いじゃないよ、
「貴方につかれるのが嫌なだけ」
剥き身の刃物。貴方からはそう見えているのか。もしかして鍔も柄も無いの?なんだか痛そう、でも案外悪くないね。しっくりくるってこういうことかな。第一痛いのって嫌いじゃないし。
だって私は元からひとりで生きていこうとしていたんだよ。それは貴方と出会った瞬間だって揺らがなかった。けれどどうにも貴方と過ごすうち変わってしまった。
私はひとりで生きていきたかったんじゃなくて、ただ揺るぎないものが欲しかっただけ。
そんな貴方を見て私は貴方を怖いと思った。けれどそれ以上に美しかった。共に居たいと願ってしまった。
貴方は私の生きる上で最上級の失敗であり、そして同時に、生きていて良かったと思えた喜びなんだよ。
「私達さ、もう磁石みたいなもんなんだよ」
「磁石?」
「そう、磁石」
重力関係なしに反発し合っているのに無理矢理くっつこうなんてしているから、私達、お互いがお互いに混ざり合ってしまったんだよ。
言ったでしょう、紛い物だって。
それで良いんだって。
消えないでって、祈って、灯火。
私達、離れたくても離れられないんだって。
どうか、分かって。
「もう、なんにもいらないよ」
ただ、
「貴方との日々が私の全てだというだけ」
分かった?長谷部。
「これが、生きているということ」
私は寝転がり彼の膝の上に頭を乗せた。
覗き込んでくる彼の睫毛を、一本一本、丁寧に数えた。美しかった。
彼の瞳に藤色の涙が溜まっていた。
「長谷部」
「はい、主」
いい。
今から言うことをしっかりと聞きなさい。
そして私の言うことを、しっかりとお聞きなさい。
長谷部。笑って。
「私のことは、少しだけ忘れなさい」
私は充分に幸せでしたから、貴方はどうかこれからも生きていきなさい。
私達は小さな生き物、それだけは忘れないで生きていきなさい。
あの部屋も、あのぬいぐるみも、花も瓶も全てあのままにしておくから。
私が帰ってくるまで、いい?
「お留守番を頼める?長谷部」
彼の涙が私の頬や額を濡らした。
私は彼の瞳を見つめた。かみさまの慈雨だ。
誉れ。
やっと、何かに許された気がした。
それはかみさまか、それとも化物か、それとも剥き身の私自身か、決して分からないけれど、もう良いよと言われた気がした。
もう充分、と頭を撫でられた気がした。
貴方に出会う為に生まれてきた。それだけは間違いない。
海で魚が泳ぐように、夜市で面を被るように、私はそうやって生きていた。
そこに現れたのが貴方だった。
海を割って、面を外して、私と目を合わせてくれたのが貴方だったんだよ。
「へし切り長谷部」
ぱたぱたと私に雫を落としながら、それでも彼は顔を隠そうとしなかった。
最期まで私に嘘をつかない、そんな彼が私は好きだった。
「はい、主」
「うん、長谷部」
主。
「主命とあらば」
貴方ったら、
「最期までそればっかりだね」
私達はくすくすと笑った。
骨になる、さよならだね。
涙を流しながら笑った。
ああ、お願い。ごめんなさい。
どうか、どうか、私の一片を持っていて。
一欠片だけで良いから、片手の中に隠していて。
どうか、忘れないで、待って、居て。
旅に出るけれど、許してね。
必ず、駆けて戻って来るから。
ひとときのことだよ、我慢してくれるね?
次は藤の花になるから、見つけてくれるね?
蜜蜂を殺しては駄目だよ、私達、死んでしまうからね。
「長谷部」
「はい、主」
私達は手を繋いだ。
花が咲き乱れていた。
私達はその香りの中、
眠るように目を閉じた。
彼を愛していた。
私の全てを懸けて。
貴方は私の世界の全て。
「私を、忘れないで」
ええ、もちろん。
「忘れません、主」
片時も、忘れたりなどしません。
「貴方を想い続けます」
温度と眠気と私達の夢。
貴方と生きた全てが、私の心だ。
どんなことがあろうとも、
貴方と生きた命が、私の名前だ。
へし切り長谷部。
愛してるよ、長谷部。
それはもう、ずっと、永遠に。
そしてもちろん、
貴方が私を、未来永劫愛しているように。
風が吹いた。
藤の花の香りがした。
私は声が枯れるまで、
貴方の名前を呼び続けた。
彼は涙が枯れるまで、
私のてのひらを握り続けた。
願いよりも望みよりも先ん出て。
春の歌に乗せて、
貴方の名を永久に愛し続けた。