私達はいつかと同じ味付けのスパゲティを食べて、春の陽気のままに散歩へ出かけた。ごちゃまぜの部屋を置きっぱなしに私達は手放しで手を繋いでいた。
遠く、煤の匂いがした。
「懐かしい?」
そう聞くと、
「懐かしいですね」
そう返ってきた。
昔のことなんて思い出さないでくれと私は念じた。けれど私は彼のこういう正直なところが好きだから、私は聞かずにはおれないのだ。私は自分で自分の尾を喰らっているのだ。どんどん、どんどん飲み込んで、もう目の先まで来ているのに止めることができない。だから仕方ないのだと私は思う。
裏路地を三つ抜けると、近くの神社を大きな藤が満開にして覆い被さっていた。古ぼけた木目に青々とした葉が浸食していた。紫雲だ、この世の楽園だ、きっと今日の私の星座は一位。朝のニュースは見逃してしまったけれど。
見て。私は指差す。
「貴方の瞳と同じ色だよ」
そう言うと、
「管轄外です」
と顔を顰められた。
「一体何が管轄外なの」
「ですから部署が違うと言いますか」
なんて困ったように言う。変な言葉ばかり覚えやがって。まあ全部私のせいなのだけれど。
「全く主は知りたがりで困ります」
「貴方にだけは言われたくないな」
つまりですね、主。白手袋で指し示して、
「あの方はここら一帯の土地の神。一方で俺は主に仕えている刀なのですから、全くもって何もかもが異なっているのです」
一緒にされては、あの方も俺も困ります。
「あの方、だって」
私は目を丸くする。
「なんだか丁寧な言い方」
おや、主。
「妬みですか?」
「断じて」
彼は首を横に振り、
「確かに俺は主だけに仕えておりますが、まあ例外もあるということです」
「例外って?」
「管轄外だと申し上げました」
「分かりやすく言って」
つまり、
「かみさまなのですよ、主」
分かっていただけますか、主。
繰り返す。
分かっていただけますね、主。
「あの方は、かみさま、なのですよ」
なんて馬鹿げたことを言う。
なに、それ。
「貴方は違うって言うの?」
「俺は、刀ですから、」
「紛い物ってこと?」
彼が言う、かみさま、もなんだか異国の言葉のように聞こえた。私はなんだか面白くなくなった。
なにそれ、なにそれ。
かみさま、だなんて貴方が言うなんて。
「主!」
そして私は彼を振り切って神社の階段を駆け上がった。つんのめって振り払って足の動くままに。昔習った作法だとか煩わしいうんちくだとか全て捨て去って鳥居を潜った。
こんにちは。そして初めまして、かみさま。
呪いたかったら呪えばいい。おにさんこちら、手の鳴る方へ。
悔しかったら捕まえてみろ!
目に付いた藤の花を一房引き千切って私は踵を返した。ほら追いかけてきてごらんよ、そう思いながらすぐに彼の元へと駆け戻った。
「主」
溜息。貴女はなんということを。言いかける彼の目の前に私はその紫を掲げて見せた。
「やったよ」
「何がです」
「取ってきたの」
「頼んでません」
「貴方の為じゃない」
私の為だよ、だから怨まれるのも私だけ。
だから良いでしょう。
「見てみたかったんだもの、私。
貴方の藤色の瞳に、一房の藤色が映っているところ」
我慢なんて、できる?
大きく見開く彼の瞳に藤の花が咲き乱れていた。綺麗だった。心臓が鳴り響いた。これが私の、ときめく、ということ。
私は言った。
「私はひとだよ。そして貴方は刀」
紛い物なのは同じでしょう?違う?
ほら、
「なんにも違わない。私達は同じ」
何も言えないでいる彼、おそらくきっと驚いているのだ。私は楽しくなって彼の帯留めに藤の花を括り付けた。お腹が空く、満たされない香りがした。
「蜜蜂、来ないかな」
「怖いのですか」
うん、と頷いた。
だって彼らは私を刺したら死んじゃうでしょう。私はただそれだけが怖かった。
かみさまなんて怖くなかった。
「全く、貴女は」
頭を抱える彼。笑う私。
「何か言ってる?」
「え?」
「かみさま。怒ったりしてる?」
人間如きが私の小爪を千切りおって、とか言ってさ。よくあるじゃない、お伽話とかでさ。知らない?
彼は薄く微笑んで、いいえと答えた。
「全く気にされておられないようですよ。貴女の存在には気付いているようですが」
「それは貴方が居るからじゃないの?」
私の知らないところで通じ合っちゃったりなんかしてさ。
「貴方は私だけの刀だというのに、全く罪な男だね」
そう腕を組むと、
「嫉みですか?」
「…断じて」
ご安心を、主。そう笑いながら。
「あの方は男神のようですから」
藤であるのに珍しい。もう社にはほとんど居られないようですね。
そう笑う彼の足を無言で私は踏みつけた。前もこんなことがあった気がした、あの時は鼻緒が切れたんだった。けれど今日はお気に入りのピンクのスニーカー。だからそんなこと起こりっこない、と思っていたら黒い紐が見事に千切れた。なんと恐ろしい。
「そもそも土地神は元来そこまで怒りっぽくなどありませんよ、なんせ土地を守る神なのですからね」
俺達とは違うのです。
「違うって何が?」
例えば。
「戦い、血を流し、刃は欠け、挙げ句の果てに最期は折れる。そんな俺達とは違うのですよ、主」
彼は静かに説明しながら私のスニーカーの紐を結んだ。蝶々結びの上に蝶々結びを重ねた。私の右足は何処までも飛んでいけそうだった。
私は彼の、跪いたそのつむじを見つめながら、そうとだけ答えた。可愛らしいつむじ。かみさまにもつむじはあるんだってこと、この世できっと私しか知らないだろう。
彼の朗読は続く。
「つまりその土地の人間達の信仰を失えば最期、彼ら彼女らは忘れ去られ跡形も無く消え失せてしまう運命なのです。ですから、大丈夫」
「一体、何が大丈夫なの?」
「貴女にバチなど当たらないということです」
私は大きな声で、
「私は当たっても構わない」
そう言った。喉が追いつかなくって咳込んだ。
俺が構います。
「主が住まう土地一帯を守る神との喧嘩など、極めて控えたい事柄ですからね」
そうか、そうはそうだね。でも少しだけ見てみたい気もするなあ。私はなんだか少しだけ悲しくなった。
「武器の使用は認めないよ」
例えばそうだなあ。
「先に酔い潰れた方が負け、とかっていうのはどう?楽しそうじゃない?」
「それは主が飲みたいだけでしょう」
バレたか。
かみさまとかみさまの紛い物に混じって酒を飲めるなんて最高だろうと思ったんだけどな。ああでも彼があの私達だけの水槽に、例え神の一匹でも踏み入れることは許さないだろうな。
まあ、満ち足りているから、いいか。
「ですが主」
「なあに、長谷部」
彼がとうとう立ち上がって私を見下ろす。首が痛くなる。彼の腰で揺れる紫を見ている方がずっと良い。
「くれぐれも先程のような無茶はお止めになってくださいね」
俺の肝が冷えます。
嘘つけ、肝なんて無いくせに。
私は笑った。でもまあ、
「うん、分かった」
ごめんね。
そう言うと得意げに両手を広げて朗々と語り出す。ミュージカルか何か?
まあ、もし万が一にでも何かあればこの俺が全力で主である貴女をこの身を呈してお守りいたしますからご安心くださいね。なんせ貴女だけの一振りですからね、俺は。ああ、なんなら普段のご出勤の際にも護衛として付き従いますよ、貴女が普段ひとりで赴くところ何処へでも…。まず昔から気になっていたのですがあの出勤とかいうのはなんなのですか、主。主を毎朝苦しめているあれは。一言仰っていただければ俺が全て丸ごと斬り捨ててご覧に入れますのに──
折角良い香りがするのに、お喋りカナリヤになってしまったせいでもう私の手には負えない。早々に春の上の空。全くいつになっても変わらないのだから。
かみさまなんて信じていないし、昔言っただろうけど、私は貴方のことなんか信じていないし。
信じているけど信じていないから。
だから大丈夫だよ、ねえ。
そんなに私のこと、心配しないで。
ねえ、
「長谷部」