俺はある種、神。
例えば、動く時計から決して目を離さず、ただその真っ裸の秒針が進むのを止めることもできぬ無力な神。
そして俺は刀。
あるいは隣に神を侍らせて夜更けの道、安い缶ビールの蓋で唇を切るような人間に付き従う刀。恐らくそろそろきっと折れる。
暗い道路の端に暗い悪夢が座礁している。それはのそりと口を開けてひとの言葉でべらべら宣う。
「バチが当たるよ」
あんた達、バチが当たるよ。隣の小さなつむじが悪夢に向かって子供騙しなあっかんべ。一体何に見えているのやら。
「斬りますか、主」
「斬っちゃ駄目」
「刎ねますか、主」
「もっと駄目」
好戦的な貴女は好戦的な俺を許さない。それでも勿論、俺は悪夢を赦す気など更々ない。
それにさ、いいじゃないと彼女が振り向く。
「神様が守ってくれるんでしょう」
溜息で吐いた息。全く貴女は。
「本当に困ったひとですね」
俺は笑って彼女の手の缶を奪おうとする。
そうすると彼女は決まって逃げる。
新月、俺は彼女と手を繋ぎ遠く明るい場所まで逃げる。
横目で少し悪夢を見やって。
「ね、長谷部」
笑う貴女に、はいと答えて。
吐いた息が冷たく凍って暗渠に取り残された悪夢を塵になるまで切り裂いた。
ご安心ください、俺の主。
俺と貴女の未来のことは俺が必ずこの身を呈して守り通して見せますから。
だから、どうか、どうぞよろしく。
こんなどっちつかずに生まれた俺を、
貴女は全身で愛してくれるのだから、
だからどうか最期までよろしく。
昨日は彼女の手を取り人の夜市に赴いた。
水音と影、窓際の花と藤色の浴衣。
長谷部、
「私が浴衣を着るのだから、分かるよね」
ええ勿論。
「俺は女物の着付けも全て習得しております」
ああ、いえ主。当然ながら主の着付けのためだけに会得したものであってそれ以外の意図などありませんよ。勿論俺の主はそんなくだらぬこと百も承知の上でしょうが…
目を開けるとにっこり笑顔の主。
「全て、違う」
「は、」
目を細めた彼女が引出しの戸を叩く。低い声に笑顔、これは非常に不味い。
「奥から二番目」
これは主命だ、へし切り長谷部。
「私が上がるまでに着ておきなさい」
それとひとつ。
「私は浴衣くらいひとりで着られる」
ぴしゃん。
そして久方ぶりに浴衣を着た。そしてどうやら久方ぶりに怒らせた。水音が止まり、戸の開く音。怒った彼女も美しいが浴衣を着た彼女も美しい。見なくとも分かる。
そしてなにより、彼女は後に引き摺らない。
それがなにより、美しい。
「綺麗です主」
「そう言えば良いと思っているでしょう」
「そう言って欲しいと顔に書いてありましたので」
鼻で笑われる。構ってもらえて酷く嬉しい。
「ただ、一言言うなればそうですね」
「なあに」
「綺麗、というのは本心ですよ」
心の底から、貴女が一番綺麗です。
喜びと憂いと隠さない嘲笑と少しの疑念が、その薄青い浴衣に透けている。やはり食えない、喰えないおひとだ。
ぴーひょろ、どんひゃら。赤い鬼灯が実るその夜市で俺は彼女と固く手を結び、人混みの中をたゆたゆと歩いた。
「主、少々お待ちを」彼女を屋台の側に待たせ、俺は手持ち無沙汰だった彼女の手に小さないちご飴を握らせた。ついこの前まで彼女はその香りと同じものを吸っては吐いて時に咳をしていた。それをやめてからというもの彼女の指は何処かずっとゆらゆらしていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「待ってないよ」
「変な虫は付きませんでしたか」
「付いてないし寄ってかないよ」
「それはなにより」
視線を合わせると逃げられる。
膝を折っても夜空を見上げられる。
ありがとう長谷部、と茫々とした口調。
俺を映さないその艶やかな唇でその小さなそれを舐る。小さな犬歯で噛み砕きその口元は人を喰ったように赤く染まっていた。それを俺はただ眺めていた。
「ねえ、次はあれやろう」
彼女が突然駆け出して腕が縺れる。射的の屋台。鉄砲などいつぶりだろう、俺はあくまで刀。
「こういうものは慣れません」
そう言うと彼女は揶揄うように笑った。
「貴方はどちらかと言うとへし切りたい方だもんね」
わざと少し睨めつけて、そこで見ていてください主。
俺が当てたチョコレイトとやらを彼女が満足げに食べるので俺は心底満足する。貰い受けましょうと言うと片手で御される。すぐに調子に乗ってしまう。
最後に赤い金魚を三匹掬った。五枚のポイはすぐに破れてしまって、俺の主の愛しいこと。五枚とも同じ破れ方をしてしまって、俺の主の学ばないこと。
彼女に出会うまで取っておいて良かったという胸中が下駄の足首に掴まって滞留した。
狭い青い屋台の海。三ツ尾の金魚、二匹は俺がが、最後ののろまは彼女が掬った。
「主は器用ではないですからね」
無言で右足を踏みつけられた。俺が笑うと彼女の鼻緒が切れた。その様はまるで八重野梅が溢れたようで思わず見惚れた。
「結んで」
「そのつもりです」
彼女を近くの腰掛石に座らせて彼女の鼻緒を結んだ。
さあ、白梅。これで元通り。俺は歌うように言う。
ああ、主。足の爪まで色を塗っておられるのですね女は彩りがお好きですからねしかしこれほど艶やかなのは主だからでしょうか。
ああ、主。お綺麗です主は紫がお好みですか俺も紫は好きな色ですまあ無論主が青がお好きと言えば俺も青が好きですし黄が好きと言えば空の色を明日から辛子色に変えてみせましょう。ああ、主、主、主。
鼻緒などもう、どうでも良いではないですか。俺がおぶって帰りましょう。なんなら両腕に抱えて宝物のようにお運び致しましょうか。
この時が終わらないならば、
俺は永久に、永遠に、
貴女に頭を垂れていましょう。
この首、人想いに落とされようとも。
「ねえ、終わった?」
彼女の声がする。彼女の声が天上から降る。
そうでしたか、貴女は天女でしたか、俺としたことが今の今まで気が付きませんでした。
羽衣はもう一生返せそうにありません。
ぐいと親指でつむじを押された。
「痛いです、主。もう少しで終わります」
終わりますから、我慢して。
「我慢は嫌い」
全く、俺の天女は情緒もない。
ねえ、終わった?ねえ、ねえったら。
そう駄々っ子のように問いかけられる。彼女のその言葉が浴衣の裾に張り付いて赤子のように泣き止まなくなる。
泣き止ませたくて抱えようにも、それは岩のように重くて俺はずぶずぶと海に沈む。俺は天女から羽衣を奪い、その天女は俺を海に引き摺り込もうとする。
それが嬉しくて堪らないから、俺は本当にそうなれば良いと思っている。
そうしたら貴女はずっと、俺のことを手離さずに居てくれるだろうか。
「はい、終わりましたよ」
帰りましょう。帰りましょう、主。
俺は軽く立ち上がる。
見渡しても海なんか何処にも無い。
「うん、帰ろう」
夜を見上げる彼女。
天女に見上げられる男など、
常世、幽世、探せども、
この俺くらいのものかもしれないな。
彼女の命で俺は浴槽にちょうどよい、ほどよい、水を張り、彼女がその中に赤い三匹を放った。彼女は突拍子なく素肌のまま居間に行ってしまったけれど俺は何も言わなかった。よく冷えた透明な水か枕元の切り花か、はてさてまたは別のものか。俺の主はよく風呂場で遊びたがるから。
にたりにたり笑う彼女が俺の元へ、もとい風呂場へ帰ってきた。床を濡らしたてんてん足跡。きっと気付かれていないと思っている。
「主、何を微笑んでいるんです」
「ううん、何でも」
両手には白い花。枕元まで行ったのか、これでは絨毯が濡れ鼠になっているだろうと想像できる。仕方ない、主命でなくとも掃除しなくてはならない時もある。
彼女が白い花を爪で千切って浴槽の上に散らしてみせた。金魚がぱしゃりと逃げてゆく。あまりにも彼女がその様から目を離さないから俺はその腰にするりと腕を回した。
「綺麗ですね」
「これは本心」
「先ほども本心だと言ったでしょう」
貴女も学ばないひとですね。
確かにねと笑われて右手を引っ張られる。主、と俺は呼びかけそうになる。そちらの手は痛いでしょう。ささくれだってタコだらけですよ。
「ねえ、一緒に入ろう」
今日はシャワーでいいでしょう。明日は絶対あったまるからさ、約束する。今日くらい金魚が主役でいいでしょう。
「駄々っ子ですね、俺の主は」
「駄々っ子で悪い」
「いいえ、全く」
そうやってふたり、金魚の泳ぐ水槽へ首まで浸かった。彼女は震えた。そんな彼女を後ろから抱えた。花も金魚もどうでも良かった、この腕に彼女を抱えていられることがなによりも俺にとって必要だった。
「寒いでしょう主」
「大丈夫」
「震えています」
「だって綺麗だから」
綺麗だから震えているの。蛍光灯とシャワーカーテンと霞草と、たくさんの白と赤い三匹の金魚。綺麗なわけがない、ここは天国。
そんなことを言う。除け者にされたって尚、貴女はこの世界にしがみつく。このふたつの世界に両足を置いて、両手で縋って、ふたつの目で世界を見る。右心房と左心房はふたつの世界の両方に片方ずつ置いてある。
どっちつかずだ、貴女はもう戻れないのだ。
だからと言って、貴女はふたつにはなれないのに。
可哀想なひと。
なんて、
可愛想なひと。
「主、首元が赤くなっていますよ」
ああ、
「そういえば」
「掻いたんですか、」
「駄目でしょう」とふたりの声が重なる。お見通しだよと言わんばかりにくつくつ笑う。
全く何処までも不遜なおひとだ。俺を馬鹿にしているでしょう。
「風呂から上がったら保湿します。主の管理を怠った俺の責任です」
これは俺の責務ですから。
「管理って、私は物かな」と笑い続ける。
「ケア、の方が優しかったですか」
どちらでもいいよ。
「まあ貴方は紛れもなく物だけど」
「物に管理される貴女は大概です」
ふたりして笑い続ける。こんな狭い水槽じゃあ貴女はきっと熱を出す。でも大丈夫、この俺がこれ以上貴女を除け者になんかさせやしない。信じて。
「主、」
後ろから肩を引き寄せた。
側にいるのは酷く痛い。
痛いけれど側に居たい。
長谷部。
「噛んじゃ駄目、」
聞き終わる前に噛んだ。ごめんなさい、ごめんなさい主。痛いでしょう、お辛いでしょう。はち切れんばかりに悲しみが溜まっているから。それを俺が流させてあげるから。
だから、どうか、我慢して。
「長谷部、痛いよ」
しばらくして、時が経って、離れた。主を噛んだ、歯を立てた。その事実が俺を酷く打ちのめした。この痛みはおそらく永遠にこのまま。それでも構わない、忘れたくなどない。
忘れなどしない。
「そんな所に、こんな風に、噛まれたのは初めて」
「貴女の初めてになれて嬉しいです」
首から真っ赤な血を流して軽く踊る彼女、
そしてそれに釣られてタップする忠実な犬。
「駄目って言ったのに」
「噛みたくなったので、つい」
ついじゃないよ。親指で血を拭うと振り返った彼女と目が合った。数えて。一、逸らされる。
「そこは私の首から拭うべきなんじゃない」
逸らされるからそっと伺うように見つめて、
「主の体液が彼らの良い養分になるかと」
金魚を一瞥。ふうん。たしかに。
「なるほどね」
滴った血はもう溶けて見えない。血は血で洗うのが一番、諺もたまには良いものですね。
彼女が俺の肩に肘をついて、濡れた髪をかき上げた。
そして右手で左耳を冷たくなぞられ、
「ねえ、良い?」
「ええ、勿論」
そしてその耳を力任せに引っ張られた。
痛くも痒くも、なんともなかった。
彼女が苦しくないように。
重たくなどないように。
殺さないように、死なないように。
唇を奪われ、そんな事ばかり考えていた。
何もかも、どうなろうと、別に良い。
彼女さえ、生きてさえ、いれば良い。
白い体、世界、ふたり。
目を閉じて泡沫、霞草の光。
小さな生き物だ、消えて無くなる。
彼女も、そして俺自身も。
瞬き、
ただ貴女に命を贈り続ける。
翌朝起きると浴槽の金魚はみんな死んでいた。腹をこちら側に向けて浮いていた。
俺は顎に手を当て言う。
「わざわざ腹を見せてくれるとは、」
斬ってくれということでしょうか。
「私に解剖の趣味はないから」
撥ね付けられる。
冗談です。
笑えない。
存じております。
全く、朝から。
「では蘇らせましょうか」
いたく真面目にそう問うと、
「物騒なこと言わないの」
また撥ね付けられた。何がいけないと言うのか。
彼女が金魚の腹をつつく。遊びと慈しみ、丁度はんぶんの瞳。
ごめんね。
「私達、ソープだけの関係だったみたい」
「主もなかなか笑えない」
ふむ、そうか。では仕切り直して。
ごめんね。
「私の血じゃあ、駄目だったみたい」
「酸欠ではないですか」
俺は答える。
始めから弱っていましたし。主が遠慮なく水遊びなさっていましたし。そもそも祭りの金魚などそんなものでしょう。
どうしてだか少し睨まれた。貴方ってひとはとでも言いたげな表情。その代わりに、
「食べる?」
浮いていた花を鼻先に突き出される。
ええ、勿論。
「喜んで」
咀嚼。少し生臭い血の香り、貴女のだ。それと金魚の鱗と鱗に挟まっていた輝き。
嚥下。喉から立ち昇る唇の熱。それから沢山の命の名残、欠片。火花と忘却。
あとは干からびていて、それでいて水を吸っていて、美味しいと言える代物では無い。
だが俺の主はなんだかやる気のようだ。
腕まくりまでして、すっかり上機嫌。
「さあ、ちゃんと掬って救ってあげよう」
昼食はスパゲティと呼ばれる麺類。西洋に伝わる食べ物らしい。シルクロードのことはよく分からないが主が知りたいと一言仰れば隅々まで知識を詰め込もうと思っている気概。それに何処かしら経由すれば西洋など二刻ほどで着くだろう。
彼女の誘いで昼過ぎに近くの空き地に行った。俺は何処までも彼女にお供する。そしてそのお供した場所で三匹の金魚は埋められた。彼女はまとめて日陰に埋めた、死んだもの達をまとめて隠した。
「墓標はどうしよう」
「墓標ですか。残念ながら管轄外です」
俺は神ですので今回ばかりは主のお力にはなれないかと…。
「いやいやそういうのじゃないから。気持ちの問題だから」
「はあ、気持ちですか」
「そうそう、気持ち」
「まあ、主命とあらば」
「この上ないほどぞんざいな主命とあらばだね」
逆にありだなと笑われる。逆にあり、つまりは逆になしという場合もあるということだ。しかと肝に銘じておかねばと考えていると、ほらほら見て、こういうの。こういうので良いんだよ。彼女の両手より少し大きい丸石を彼女はよいしょと持ってくる。俺はそれを片手で受け取る。
「これをさ、こうやって置いておくの」
真新しいこんもり積んだ土に、真新しいまあるい墓石。白詰草の花言葉は復讐、四つ葉は幸運の象徴。かつて貴女が教えてくれた。
「主」
「なあに」
「これは何のために置くんです」
さあ。彼女は青草の上に座り込んだ。
「分からない。考えたこともなかった」
「考えたこともないことをするのですか」
「そうだよ」
「人間達の習慣ですか」
「そうだよ」
多分人間ってそういうものだよ。
「では、主は今、どうしてこれを置いたんです」
「うん、そうだね」
多分、
「忘れないためかな」
「あの金魚達のことをですか」
「そう。忘れないため」
できる限り、覚えておくため。
「であれば朝、俺が蘇らせましたのに」
俺が生き返らせましたのに。元より強く、長生きもする、貴女を喜ばせるものに、生まれ変わらせてみせましたのに。
そう、俺はちゃんと伝える。なのに俺達はずれてゆく。
「長谷部」
「はい」
それも素敵だけどね。でもね、聞いて。
「それじゃあ意味がないんだよ」
貴方と私が昨日すくった、あの狭い屋台の狭い水槽から救い上げた。
そして霞草と私達と明かりのもとで泳いだ、
私の血を吸って一晩中遊泳した。
「それを私が忘れないためだよ」
私が忘れたら誰が覚えておくというの。
小さな生き物は無くなってしまうんだよ。
貴方に分かる?
そしてね、一年後に私達これを掘り返して、
骨になった彼らを粉々になるまで砕いてね、
そして川に流してあげるんだよ。
そしたら海まで行くでしょう。
狭い水しか見たことない彼らが広大な塩の湖を見る、そんな素敵なことってないでしょう。
だからね、長谷部。
「私が死んだら貴方が覚えておいてね」
貴方が覚えていてあげてね。
ね、お願い。どうか約束して。
そんな主に俺は困った、そして同時に悲しかった。
悲しそうな貴女を見るのは、果てのない底から悲しかった。
「ええ。…主命とあらば」
そう答えた。ふたり、少しだけ寒い。
土と風の香り。
歯磨き、枕、消灯、耳元。
「主」
「なあに」
明日の、早朝。
「海まで散歩に出掛けませんか」
彼女のことをもっと分かりたくて、もっと奥底まで知りたくて俺は海へ彼女を誘った。彼女は何処までも俺についてくる。俺も何処までも彼女についてゆく。
彼女の息が白かった、紫黄水晶の空。何も言わずその肩へ羽織を掛けた。
「暖かいでしょう」
「うん、暖かい」
ありがとう。
こちらこそ。
手を繋いでも良い?
ええ、勿論。
鉄の俺は冷たくはないだろうか。火花を散らせば貴女を火傷させやしないだろうか。そんなことを、空を思う貴女を眺め思う。
側にいるだけで幸せなどと、俺は一度も思ったことはないのですよ。
側に控えているだけで充分などと、俺はそんなこと一度たりとも宣ったことはないでしょう、主。
落ちている白い貝殻、落ちゆくふたりの繋いだ手。
「食べる?」
「いいえ」
「要らないの」
「ええ、今は」
満たされていますから。
だから、今は、駄目なのです。今だけは受け取れないのです。どうか赦しを、そして応えを。俺の覚悟を。
「主」
「なあに」
彼女は必ず、俺の呼びかけに必ず答える。
「俺をもっと、物としてお使いください主」
笑う。貴女は本当によく笑うおひとだ、本当に楽しげに笑うひと。
「どういうことかな」
例えば冬なんかで言うと、白菜の漬物を貴方で切ったりとかっていうこと?
「私が貴方で人を斬ろうったって、それで良いっていうことなのかな」
そんなことできないの、貴方が一番よく知っているくせに。そう傷付いたように笑う。
「馬鹿ですね主は」
もう、折れそうだ。でも構わない、貴女の為なら。
「俺は別に沢庵だろうが福神漬けだろうが構いませんよ」
「私は野沢菜が一番好きなんだけど」
「ええ、無論知っています」
彼女の手を強く握った。彼女は強気にも握り返してきた。ああ、こういう所だ。そういう所です、俺の主。
媚びない、靡かない、酷く強かで、それでいて風のように柔らか。貴女のこういう所を、
俺は。
「どんな使われ方をしようとも、
側にいると言っているんです」
本気です、主。
「湖の底からの本心です」
この目を見てください、さすれば分かるはず。俺の根元の源の原初からの炎なのです。
なのに貴女は。
「私の近侍」
そう、俺を呼ぶ。縛られる、動けなくなる。このおひとは俺の炎に尚も油を注ぐ。
「そういう時は下の名前で呼ぶものだよ」
殊更に言うなら、甘く優しい声色でね。
口元のたゆむ笑み。勝気。負けなどしない。
「貴女を、口説いているんですよ」
分からないかな。
分かんないよ。
「もう何度も口説かれた。口説き落とされたからここに居る。貴方の方こそ分からないかな」
「いいえ貴女は分かっていません。
俺は何度だって貴女を口説き落としますとも」
だって今の貴女は俺から離れていきそうだ。
貴女は死んだっていいと思ってる。
「俺にそれが分からないとでも?」
貴女の前ではいつだって優しくたおやかな俺でありたい、貴女の瞳に返り血を浴びた俺など映させたくない。
なのにそれを貴女は決して許さない。
いい、長谷部。
「貴方は神だけど神じゃないし、
私、貴方のこと信じているけど信じていないんだよ」
貴方は神様だけれど、貴方のこと神様扱いした覚えはない。
私は貴方のことを心の底から信じている、
でもね、決して私貴方に祈ったりなどしない。
「私のことが好き?」
「ええ、好きですよ」
美しい睫毛の影。
「少なくとも、貴女が思っている以上には」
「私も好きだよ」
勿論、
「貴方が思っている以上に」
もう、駄目かもしれない。もう、きっと終わりなのだ。朝日が近い。
貴女はいつだって俺の真ん中を目掛けて、欠けることすら恐れず真っ直ぐに向かって来るから。だから俺は怖くなる、貴女は剥き身の刃物のよう。
決壊が近い。もう、どうすることもできない。
「どうして海なの」
彼女は言う。酷いよ。
「好きなひとと海を見るのに理由がいりますか」
俺は答える。苦し紛れに。
彼女は笑う、息絶え絶えに。
「心中しようって言われてるみたい」
「別に構いませんよ」
永遠に誰にも見つからない海底まで沈んでしまえば、俺の最後の主は貴女になる。
「最期に愛したひとだ」
「素敵だね」
素敵な御伽話。でもね。
「そんなの、私、いらないのに」
ぽたと涙が溢れた。
「一緒に居られればそれで良いのに。
私はそれで充分なのに」
手を握り俺達は泣いた。
「泣かないでください主。
俺の羽織を濡らさないで」
「うるさい、うるさいなあ、もう」
泣きたくて泣いてるわけじゃないもの。こんな時くらい静かにできないの、貴方ってひとは。
俺だってそうです、泣き顔など貴女にしか見せません。こんな時くらい俺の方を向いたらどうです。
「ねえ、長谷部」
縋るように貴女は言う。
隣に居る、それだけじゃあ駄目なのかなあ。
やっぱりバチが当たるのかなあ?
そんな貴女を俺は深く受け止めたい。
「バチなど当たりません。
この俺が当たらせなどさせませんとも」
「本当?ねえ、ほんと?」
本当です、本当ですとも。俺を信じて。なんて言ったって俺は神様、貴女に仕える神なのですよ。誰よりも、なによりも、どんな物よりも、貴女を守り抜く。
血に濡れて、錆びつき、折れたって良い。
そう、決めたのですから。
「約束します。
ずっと一緒に居ます」
ざざん、ざざんと波の音が聞こえる。満潮、全て飲み込め。俺が見込んだ渦潮よ。
主。
もし俺が凍りつき折れてしまって、もう二度と会うことが叶わなくなったら貴女は泣いてしまわれますか。
もし俺が錆びつき、異形の物に堕ちてしまっても、貴女は手元に置いてくださりますか。
もし、俺を嗣ぐ物が居なくとも、
貴女は笑っていてくださりますか。
俺は神で、刀で、人を斬る物。
貴女はそんな俺を傍に置く、花のような人。
どっちつかずだ、
ふたりはそんな、
命のような物。
彼女は月を見上げて、俺は隣に居る彼女を眺めて、尚のことふたり手を握っている。
強く、強く。
「綺麗だよ、長谷部。
月が、綺麗」
ええ、ええ、
「綺麗ですね、主」
月には兎がいるんだよ。知ってる?
兎が餅つきしてるの、それでかぐや姫もいるの。エイリアンって知ってる?知ってる?
ええ、ええ、知っていますとも。貴女が全部教えてくれた。それはそれは賑やかでしょうね、
主。
「愛してるよ、長谷部」
そんな言葉を貴女は俺の目を見つめて唱えた。
俺に宛てて言ったのではなかったのかもしれない。
ざざん、さざなみが響く。
はい、
「愛しています、俺の主」
俺もまた、貴女に宛てて言ったのではないかもしれない。それでも良い、それが良い。
俺達の愛は俺達の中で完結するのが、
一番良い。
海がそれを攫ってゆくから、
別にそれで、充分すぎるほどに、
俺達の涙は幸福論。
彼女は俺が居る限り永久に幸せであり続ける。
過去も今もこれからも、ずっと。
ただ、俺が居なくなったその時はもう一度俺に会いたいと声を上げて泣いて欲しいと願っている。
貴女は勝気で我儘で不遜だからそんなの嫌だと撥ね付けるかもしれないけれど、だけど、どうか、心の底から。
どうか。
さすればその声を聞いた俺は一刻もかからず貴女のもとへ駆けつけましょう。林檎も宴も殺し損ねた烏も放って、貴女の唯一であり続けましょう。
今年も実ったよ、長谷部。
庭から彼女の声がする。
彼女が死んで一年になる。
貴女が死んで、貴女が死んで、俺が折れて、貴女が死んで、確か今日でちょうど千年周期。
今日は少しだけ蒸す夜なので、
俺達は浴衣を着ることにする。
今晩は彼女の当番なので、
きっと徳利が出てくると思う。
例えばこんなことが世界が終わるまで続いたとして、それで小さな生き物がみんな息絶えたとして、
そしたら多分彼女か俺か、どちらかが迎えに赴くと思うから、その手を取ってまたこの世に生まれてきたいと思う。
例えば、
地獄の鈴虫に生まれたとして、
沖で吠える波になったとして、
蝶々結びの鎖になったとして、
雪のアメトリンだったとして、
さすれば彼女に呼ばれるのを待つ。
花の貴女を風が教えてくれたなら、
光よりも早く駆けてゆこう。
そんな時を過ごそう、
こんな星のぽっかり空いた、
俺達だけの世界で。