鯨骨生物群集

コーヒー豆さん

私は不遜な人間だ。
例えば、動かない時計をじっと見つめて真っ裸の秒針から目を離さぬような人間。
私は不遜で堕落した人間。
あるいは隣に神様を侍らせて夜更けの道、安い缶ビールの蓋で唇を切るような人間。多分そろそろバチが当たる。
暗い道路の端に汚い占い師の老婆が座っている。帽子を深く被って私達を指差して呟く。
「バチが当たるよ」
あんた達、バチが当たるよ。私は構いなくあっかんべ。酔いどれ。今晩は新月。
「斬りますか、主」
「斬っちゃ駄目」
「刎ねますか、主」
「もっと駄目」
それにさ、良いじゃない、バチくらい。私は振り向く。彼の前髪に夜がかかる。
「神様が守ってくれるんでしょう」
眉根を下げて溜息。全く貴女は。
「本当に困ったひとですね」
私は不遜、不遜、不遜な人間。
深く掘っても沈めても、もうどうにも無くせない。もう一度私達最果てを目指して、手を繋ぎ遠い朝日まで歩き続ける。
「ね、長谷部」
未来も少ないこんな小さな生き物ですが、
どうぞ、どうぞ、どうぞよろしく。
こんな星のすみっこでこんな私達出会ったんだから。
だからどうか最期までよろしく。

 

 

昨日、彼と共に夜市に赴いた。
軽くシャワーを浴びて私は久方ぶりに浴衣を着た。その間に彼も薄い紫の浴衣を着ていた。軽装の彼は非常に美しかった。観葉植物が映えるただの居間でこの世のものとはとても思えぬものが舞い降りた。突然天井から藤の花が咲き誇ったようなそんな感じ。
勿忘草の浴衣を着た私を見て一言、
「綺麗です主」
「そう言えば良いと思っているでしょう」
「そう言って欲しいと顔に書いてありましたので」
むかつく奴め。
「ただ、一言言うなればそうですね」
「なあに」
「綺麗、というのは本心ですよ」
心の底から、貴女が一番綺麗です。
歯の浮く台詞。瞳の奥に優しさが浮かんでいて私は何も言えなくなる。やはり食えない、美しい神様め。
ぴーひょろ、どんひゃら。赤い鬼灯が実るその夜市で私は彼と固く手を結び、人混みの中をたゆたゆと歩いた。
「主、少々お待ちを」そう言って私を待たせて小さないちご飴片手に戻って来た。
「お待たせして申し訳ありません」
「待ってないよ」
「変な虫は付きませんでしたか」
「付いてないし寄ってかないよ」
「それはなにより」
にっこりの彼、満足げの彼。
ありがとう長谷部。
舌で小さなそれを舐め上げた。甘く溶けてそれをじゃりじゃりと噛んだ。私の口に似合うようきっと一番小さなものを選んできたのだ。
「ねえ、次はあれやろう」
私は彼の腕を取って射的を指差す。
「こういうものは慣れません」
軽いチャチな鉄砲を持って彼は言った。
「貴方はどちらかと言うとへし切りたい方だもんね」
そう戯けていうと少しぎろりと睨まれた。
彼が当てたテキヤで貰った安い景品のチョコレイトを食べた。薄い銀紙は袖の中に捨てた。貰い受けましょうと言う彼を私は制した。
最後に赤い金魚を三匹すくった。五枚のポイはすぐに破れてしまって、私は昔の破瓜のことを思い出した。私の破瓜はあの時死んだ。
彼に出会うまで取っておくべきだったなと風のように思ってすぐ夜に消えた。
狭い青い屋台の海。三ツ尾の金魚、二匹は彼が、最後ののろまは私がすくった。
「主は器用ではないですからね」
頭に来たので彼の足を踏んづけると鼻緒が切れた。やはり神様に逆らうものではないらしい。ふたりそっと人混みを離れた。
「結んで」
「そのつもりです」
彼は屈んで私の鼻緒を結んだ。
彼のカナリアのようなぺちゃくちゃお喋り。
ああ、主。足の爪まで色を塗っておられるのですね女は彩りがお好きですからねしかしこれほど艶やかなのは主だからでしょうか。
ああ、主。お綺麗です主は紫がお好みですか俺も紫は好きな色ですまあ無論主が青がお好きと言えば俺も青が好きですし黄が好きと言えば空の色を明日から辛子色に変えてみせましょう。ああ、主、主、主。
その間私は彼のつむじをじっと見ていた。こういうことは少ない。片手に金魚の袋を持って、彼が私より小さくて、私は黙って更けていく夜を気にしている。
「ねえ、終わった?」
夜市から人が消えてゆく。店を畳んでもうお終い。お家に帰ってもうお終い。私は彼のうずまきを押した。神がここまで深く頭を下げるのはこの世で私ひとりだけかもしれないな。
「痛いです、主。もう少しで終わります」
終わりますから、我慢して。
「我慢は嫌い」
ねえ、終わった?ねえ、ねえったら。
遠くはないいつか、ねえ、終わった?なんて、そう問われる日が来るかもしれないな。
私自身が潰えて消える日には、決してこんな風に彼を見下げていたくないと強く思った。
そうだ、隣で、できれば顔を見ながら。
膝の上で、肩を抱かれながら、彼の睫毛の本数を数えたりなんかしていたい。
そしたらずっと私のこと、貴方は覚えててくれるかな。
「はい、終わりましたよ」
帰りましょう。帰りましょう、主。
彼が立ち上がる。また私は彼を見上げる。
首が痛いよ、そろそろ少し寒いね。
「うん、帰ろう」
帰ろうか。金魚を下げて。
浴衣を着てカラコロカラコロ、
下駄を鳴らして。

 

その日の内に、私と彼と金魚は共に風呂に入った。浴槽にちょうどよい、ほどよい、水を張り、その中に赤い三匹を放った。私は部屋に飾っておいた霞草を裸で取りに行って絨毯を濡らしてしまった。
きっと後で彼にばれてこっぴどく叱られる。
主、濡れた身体で居間に行ってはいけないと何度言ったら分かるのですか、なんて。
床がびしょ濡れになってしまうでしょう、一体誰が掃除すると思ってるんですか。
長谷部、と私は迷いなく答えるだろう。
そしたらきっと彼は深く頷いて、分かっているならよろしいです、もうしないように。
全部想像できる。笑えた。
「主、何を微笑んでいるんです」
「ううん、何でも」
楽しみは後に取っておかなくては。
霞草を細かく千切って私は上から浴槽に散らした。金魚がぱしゃりと逃げてゆく。ここからでは丸見えなのに。彼が私の腰にするりと腕を回した。
「綺麗ですね」
「これは本心」
「先ほども本心だと言ったでしょう」
貴女も学ばないひとですね。
確かにねと私は笑って彼の骨張った手を握り引っ張る。
「ねえ、一緒に入ろう」
今日はシャワーでいいでしょう。明日は絶対あったまるからさ、約束する。今日くらい金魚が主役でいいでしょう。
「駄々っ子ですね、俺の主は」
「駄々っ子で悪い」
「いいえ、全く」
そうやってふたり、金魚の泳ぐ水槽へ首まで浸かった。私は震えた。霞草が浮かんで、その下で金魚が三匹泳いで、私は膝を抱えて震えた。
「寒いでしょう主」
「大丈夫」
「震えています」
「だって綺麗だから」
綺麗だから震えているの。蛍光灯とシャワーカーテンと霞草と、たくさんの白と赤い三匹の金魚。綺麗なわけがない、ここは天国。
彼はきっと寒くない、だって彼は神様だから。彼は鉄の神様だから、彼の方が冷たいから。
背中、彼の胸にもたれる。鉄のくせにほのかに暖かい。なぜだろうと目を閉じて考えた。
闘うからかな、命を燃やして割れて削って傷ついて、火花を散らすから暖かいのかな。
「主、首元が赤くなっていますよ」
ああ、
「そういえば」
「掻いたんですか、」
「駄目でしょう」とふたりの声が重なる。私はくつくつと笑う。このくらいお見通し。
彼の溜息、馬鹿にしているでしょう。
「風呂から上がったら保湿します。主の管理を怠った俺の責任です」
やれやれ、どこまで本気で言ってるのやら。
「管理って、私は物かな」と笑い続ける。
「ケア、の方が優しかったですか」
どちらでもいいよ。
「まあ貴方は紛れもなく物だけど」
「物に管理される貴女は大概です」
ふたりして笑い続ける。こんな冷たい水じゃあ私はきっと風邪をひく。
「主、」
後ろから肩を引き寄せられる。
首元に尖った犬歯の気配。
長谷部。
「噛んじゃ駄目、」
言い終わる前に噛まれた。痛い。血が出る。
金魚より濃い赤が滴る。破瓜の痛みだ。
「長谷部、痛いよ」
しばらくして、時が経って、離れた。永遠にこのままかと思った。それでも別に良かったけれど。
「そんな所に、こんな風に、噛まれたのは初めて」
「貴女の初めてになれて嬉しいです」
今更初めてにこだわるとはなんて重たい男、
そしてそれにまんまと引き摺られる重たい女。
「駄目って言ったのに」
「噛みたくなったので、つい」
ついじゃないよ。振り向いて言うと赤い唇を拭う彼がいた。
「そこは私の首から拭うべきなんじゃない」
そう不躾な神に忠告して差し上げるとにやり笑って、
「主の体液が彼らの良い養分になるかと」
金魚を一瞥。ふうん。たしかに。
「なるほどね」
滴った血はもう溶けて見えない、水よりも血は薄いみたい。諺は嘘つき。
私は彼の肩に肘をついて、濡れた髪をかき上げて。
そして右手で左耳を優しくなぞって、
「ねえ、良い?」
「ええ、勿論」
そしてその耳を思い切り引っ張った。
力づくで彼を引き寄せた。
そのまま柔らかで熱い唇を奪った。
何もかも、どうなろうと、別に良い。
そのまま私達、後ろに倒れ水中、
はは、息もできない。ざまあみろ。
音のない世界、ふたりで唇を重ねた。
目を開けると歪んだ明かり、霞草の影、
貴方の体重と送り込まれる酸素。
瞬き、
金魚が尾を振って横切っていった。

 

 

翌朝起きると浴槽の金魚はみんな死んでいた。腹をこちら側に向けて浮いていた。
彼が顎に手を当て言う。
「わざわざ腹を見せてくれるとは、」
斬ってくれということでしょうか。
「私に解剖の趣味はないから」
そう答えると、
冗談です。
笑えない。
存じております。
全く、朝から。
「では蘇らせましょうか」
そんなことを言うので、
「物騒なこと言わないの」
腹をつつくとぷかぷか水面散歩。
ごめんね。
「私達、ソープだけの関係だったみたい」
「主もなかなか笑えない」
ふむ、そうか。では仕切り直して。
ごめんね。
「私の血じゃあ、駄目だったみたい」
「酸欠ではないですか」
始めから弱っていましたし。主が遠慮なく水遊びなさっていましたし。そもそも祭りの金魚などそんなものでしょう。
こういう時ばかり真っ当なことを言う男だ。
私は浮かんだ霞草を手に取って彼に差し出す。
「食べる?」
「喜んで」
咀嚼、嚥下、途端彼から香る霞草。夢のような夢物語だ。私は腕まくり。
「さあ、ちゃんと掬って救ってあげよう」
私達は昼ごはんにスパゲティを食べて少し休んで、昼過ぎに近くの空き地に行った。そしてそこで三匹の金魚を日陰に埋めた。まとめて埋めた、そちらの方が寂しくないだろうから。
「墓標はどうしよう」
「墓標ですか。残念ながら管轄外です」
俺は神ですので今回ばかりは主のお力にはなれないかと…。
「いやいやそういうのじゃないから。気持ちの問題だから」
「はあ、気持ちですか」
「そうそう、気持ち」
「まあ、主命とあらば」
「この上ないほどぞんざいな主命とあらばだね」
逆にありだな。
ほらほら見て、こういうの。こういうので良いんだよ。私は両手より少し大きい丸石を持ってくる。彼の片手にちょうど収まるくらいの。
「これをさ、こうやって置いておくの」
真新しいこんもり積んだ土に、真新しいまあるい墓石。木陰に野花。白詰草を摘んでも良い。
彼は不思議そうな顔をして私を覗き込む。
「主」
「なあに」
「これは何のために置くんです」
さあ。私は青草の上に座り込んだ。
「分からない。考えたこともなかった」
「考えたこともないことをするのですか」
「そうだよ」
「人間達の習慣ですか」
「そうだよ」
多分人間ってそういうものだよ。
「では、主は今、どうしてこれを置いたんです」
「うん、そうだね」
多分、
「忘れないためかな」
「あの金魚達のことをですか」
「そう。忘れないため」
できる限り、覚えておくため。
「であれば朝、俺が蘇らせましたのに」
俺が生き返らせましたのに。元より強く、長生きもする、貴女を喜ばせるものに、生まれ変わらせてみせましたのに。
そんなことを言う。私は悲しくなる。
「長谷部」
「はい」
それも素敵だけどね。でもね、聞いて。
「それじゃあ意味がないんだよ」
貴方と私が昨日すくった、あの狭い屋台の狭い水槽から救い上げた。
そして霞草と私達と明かりのもとで泳いだ、
私の血を吸って一晩中遊泳した。
「それを私が忘れないためだよ」
私が忘れたら誰が覚えておくというの。
小さな生き物は無くなってしまうんだよ。
貴方に分かる?
そしてね、一年後に私達これを掘り返して、
骨になった彼らを粉々になるまで砕いてね、
そして川に流してあげるんだよ。
そしたら海まで行くでしょう。
狭い水しか見たことない彼らが広大な塩の湖を見る、そんな素敵なことってないでしょう。
だからね、長谷部。
「私が死んだら貴方が覚えておいてね」
貴方が覚えていてあげてね。
ね、お願い。どうか約束して。
そう言うと、彼は困ったように微笑んで、
「ええ。…主命とあらば」
そう答えた。ふたり、少しだけ寒い。
土と風の香り。

 

 

 

歯磨き、枕、消灯、耳元。
「主」
「なあに」
明日の、早朝。
「海まで散歩に出掛けませんか」

そんな彼の夜眠る前の一言で私達は海まで赴いた。まだ薄暗い、遠くテトラポッド、寒い。パーカーを引き寄せる。何も言わずに肩に彼の羽織が掛かった。
「暖かいでしょう」
「うん、暖かい」
ありがとう。
こちらこそ。
手を繋いでも良い?
ええ、勿論。
繋いだ所からじんじんして、朝焼けが薄いラベンダーで、まるで空全体が彼みたいだった。
なあんだ、空は黄色じゃなくて彼だったのか。どうりで世界がぼやけて見える。
かじかんだ手で彼の手を握った。さざなみが聞こえて砂浜に白い貝殻が落ちているのが見えた。
「食べる?」
「いいえ」
「要らないの」
「ええ、今は」
満たされていますから。
珍しいなあ、彼は私からのものを何でも口に入れて手に取って足で踏んで味わうのに。
息を吐く。少し白くて私は嬉しくなる。
「主」
「なあに」
彼は必ず、私が返事をするまで必ず待つ。
「俺をもっと、物としてお使いください主」
笑う。私は彼といるとよく笑う。
「どういうことかな」
例えば冬なんかで言うと、白菜の漬物を貴方で切ったりとかっていうこと?
「私が貴方で人を斬ろうったって、それで良いっていうことなのかな」
そんなことできないの、貴方が一番よく知っているくせに。
「馬鹿ですね主は」
吹き出すように笑われた。
「俺は別に沢庵だろうが福神漬けだろうが構いませんよ」
「私は野沢菜が一番好きなんだけど」
「ええ、無論知っています」
彼が私の手を強く握った。私も強く握り返した。彼はあまり昔の話をしなくなった。私はそれが嬉しくて、そして同時にとても悲しい。
「どんな使われ方をしようとも、
側にいると言っているんです」
本気です、主。
「湖の底からの本心です」
湖、近江。こんな時にそんな話か。
「私の近侍」
そう、彼を呼ぶ。貴方は今誰のものなのか、
その身に深く分からせるために。
「そういう時は下の名前で呼ぶものだよ」
殊更に言うなら、甘く優しい声色でね。
彼は負けじと言う。
「貴女を、口説いているんですよ」
分からないかな。
分かんないよ。
「もう何度も口説かれた。口説き落とされたからここに居る。貴方の方こそ分からないかな」
「いいえ貴女は分かっていません。
俺は何度だって貴女を口説き落としますとも」
だって今の貴女は俺から離れていきそうだ。
貴女は死んだっていいと思ってる。
「俺にそれが分からないとでも?」
つり目の優しい藤色を見た。その瞳に私が映っていた。今にも泣き出しそうな顔をしていて笑えた。
いい、長谷部。
「貴方は神だけど神じゃないし、
私、貴方のこと信じているけど信じていないんだよ」
貴方は神様だけれど、貴方のこと神様扱いした覚えはない。
私は貴方のことを心の底から信じている、
でもね、決して私貴方に祈ったりなどしない。
「私のことが好き?」
「ええ、好きですよ」
迷わず答える彼。
「少なくとも、貴女が思っている以上には」
「私も好きだよ」
勿論、
「貴方が思っている以上に」
愛しているなんて陳腐な言葉、絶対に言ってなんかやらない。この神はそれすらも勘付いるから私は自分の首も掻っ切れない。
なんだかしょっぱいな、海だからかな。酷い男だ、こんな所に連れてきて。
「どうして海なの」
酷いよ。
「好きなひとと海を見るのに理由がいりますか」
私は笑う、声高く笑う。
「心中しようって言われてるみたい」
「別に構いませんよ」
永遠に誰にも見つからない海底まで沈んでしまえば、俺の最後の主は貴女になる。
「最期に愛したひとだ」
「素敵だね」
素敵な御伽話。でもね。
「そんなの、私、いらないのに」
ぽたと涙が溢れた。
「一緒に居られればそれで良いのに。
私はそれで充分なのに」
手を繋いで私達は泣いた。
「泣かないでください主。
俺の羽織を濡らさないで」
「うるさい、うるさいなあ、もう」
泣きたくて泣いてるわけじゃないもの。こんな時くらい静かにできないの、貴方ってひとは。
俺だってそうです、泣き顔など貴女にしか見せません。こんな時くらい俺の方を向いたらどうです。
「ねえ、長谷部」
縋るように私は言う。
隣に居る、それだけじゃあ駄目なのかなあ。
やっぱりバチが当たるのかなあ?
「バチなど当たりません。
この俺が当たらせなどさせませんとも」
「本当?ねえ、ほんと?」
貴方はそう言って何も分かってないことが多いの、私はよく知っている。貴方のこと分かった気になって何にも知らない私のこと、私が一番よく知っている。
「約束します。
ずっと一緒に居ます」
ざざん、ざざんと波の音が聞こえる。満潮だ。
ねえ。
あの小さな赤色達、あの時すくい上げていなかったらもっと長生きできていたかなあ。
あの子達を掘り起こす一年後まで、
私達こうしていられるかなあ。
貴方の隣で生きていられるかなあ。
どうして貴方は神で、
私は人なの。
どうしてなの。
ねえ。
取り残された月がぽっかり空に浮かんでいる。私はそれを見上げて、尚のこと彼の手を握っている。
強く、強く。
「綺麗だよ、長谷部。
月が、綺麗」
ええ、ええ、
「綺麗ですね、主」
月には兎がいるんだよ。知ってる?
兎が餅つきしてるの、それでかぐや姫もいるの。エイリアンって知ってる?知ってる?
ええ、ええ、知っていますとも。貴女が全部教えてくれた。それはそれは賑やかでしょうね、
主。
「愛してるよ、長谷部」
絶対言わないと誓った言葉を私は唱えた。
彼に宛てて言ったのではなかったのかもしれない。
ざざん、さざなみが響く。
はい、
「愛しています、俺の主」
彼もまた、私に宛てて言ったのではないかもしれない。それでも良い、それが良い。
私達の愛は私達の中で完結するのが、
一番良い。
涙にそれが映っているから、
別にそれで、充分すぎるほどに、
私達の海は幸福論。

 

 

 

私は彼に幸せになってほしいと思っている。
過去も今もこれからも、ずっと。
ただ私が居た時よりも少しだけ不幸せになってほしいとも思っている。
私の小指の甘皮ぶんほどだけでいいから、私が居た時よりも彼はほんの少しだけ不幸せであると良い。
それくらいの独占欲に満たない欠片ほどの毒を彼に植え付け私は彼の隣に立っている。
花が咲きましたよ、主。
ベランダから彼の声がする。
金魚が死んで一年になる。
今日はよく晴れているので、
私達はシーツを干すことにする。
今晩は彼の当番なので、
きっとサンマを焼いてくれると思う。
例えばこんなことが私が死ぬまで続いたとして、それで私が息絶えたとして、
そしたら多分彼が迎えにきてくれると思うから、その手を取ってまたこの世に生まれてきたいと思う。
例えば、
水槽の金魚に生まれたとして、
空き地の野花になったとして、
研がれた包丁になったとして、
波打ち際の貝殻だったとして、
さすれば彼に拾われるのを待つ。
足や翼を持っていたなら、
彼の所まで駆けてゆこう。
そんな時を過ごそう、
こんな星のぽっかり空いた、
私達だけの部屋で。

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