鯨骨生物群集

秘密

 唇の震えが止まらない。照明も付けていないのにやたらと視界は鮮明で、部屋の外の酔っ払いの喧騒は遠く聞こえて。おそらく五感が狂ってしまっている。重い足を引きずって洗面所にたどり着き、汚れた手を洗う。ぬるい水道水がだんだん冷えていくにつれて、事態の重大さが現実味を帯びてくる。手先が震えて上手く動かせないのは、流水の冷たさに凍えているわけでもなく、極度の動揺で末端に血が巡っていないせいだ。こんなにも指先は冷え切っているのに、体は熱く、汗でべたついて不快だ。洗面台を流れる水は、いつまでもいつまでも赤く滲んでいる。眩暈のせいか涙のせいか視界が歪む。ふと顔を上げると、目の前の鏡には、私の背後に立ち、こちらを見つめる男が映っていた。
 服は血に染まり、汗にまみれた前髪がべったりと額に張り付いた酷い様子の私とは対照的に、着衣の乱れもなく美しい姿勢で立つ男は、恋人の長谷部国重だった。ああ、なんて綺麗な人なんだろう、まるで神様みたいだ。そんな場違いなことを考えてしまう。私は迷子のような目で長谷部さんをぼんやりと見た。彼は鏡越しに私と目が合うと、清しく微笑んだ。
「か、帰ってきてたの。」
「これからどうなさるおつもりですか。」
風呂場で重く沈黙する「それ」について問われ、改めて現実を突きつけられる。

 その男は私が二年前に付き合っていた男だった。少しでも思い通りにならないと手を挙げるような酷い男だった上に、付き合っていたと思っていたのは私だけで、彼には本命の彼女がいたことがわかった。それが分かってからも、いつか自分が本命になれるかもしれないと思って耐えてきた。彼が好きだったのだ。
そんな中で、当時仕事の取引先だった長谷部さんから交際を申し込まれた。交際相手がいない、とも言えず、つい現状を話してしまった。彼はそんな私の境遇に真剣に心を痛めて「俺は貴方を悲しませるようなことは絶対にいたしません」と真っ直ぐに伝えてくれた。彼の優しさに私は逃げ込んだ。

 それから二年。長谷部さんとの優しく穏やかな生活で、元彼にされた仕打ちの傷も癒えて、幸せな日々を過ごしていたのに。元彼は今更になって「彼女と別れたから」と家まで押しかけて復縁を迫ってきた。

 男は酒に酔っているようで、玄関先で大きな声で言い合っているところを見られてご近所にあらぬ噂を立てられてはたまらない。私は今の長谷部さんとの平和な日常を壊したくなかった。やむなく部屋に入れてしまったが、その判断は間違いだった。男は最初は下手に出ていたが、思い通りにならずに喚き始め、かつてのヒステリーを思い出す。何が不満なんだ、あれだけ本命にしてくれと言っていたのに。まさか男がいるのか?と自分で言いながら腹が立ってきたのか、とうとう押し倒されて顔を殴られる。
まずい、と思った。長谷部さんとの平穏な日常が崩れることが耐えられなかった。もうすぐ彼が帰ってきてしまう。その前にはやくこの男をどうにか。

 暴れた拍子に台所の包丁が落ちた。もうやるしかないと思った。そこから先のことはあまり覚えていない。とにかく必死だった。気づいたときには台所は酷い有様で、彼が返ってくる前にとにかく隠さなければ、と思った。

 鑑越しに薄く微笑む長谷部さんを見て、隠しきることはできなかったのだ、と悟った。
 焦る気持ちとは裏腹に、思考はまともに働かない。先程まで揉み合っていた私は全身打撲だらけで、骨と筋肉が悲鳴を上げていた。
 長谷部さんは後ろから両手を私の腰に回して抱きしめる。緩慢に振り返って彼を見上げると、彼は私の家事を引き受ける時とまるで変わらぬ口調で「手伝いましょう。」と言った。
「大丈夫です、俺にお任せください。」
 彼は付き合い始めてからも敬語を崩さない。なんだかこの言葉を、ずっと前にも聞いたことがあるような気がする。それが愛の言葉のように聞こえたのは、この異常な状況のせいなのか。

 運転席に座る彼は上機嫌で鼻歌を歌っている。ずいぶん昔の映画のバラードだった。深夜の高速道路で私たちは世界に二人きりのような心地がした。トランクの中には黒い四十リットルのビニール袋は三袋。それだけがこのロマンチックな夜に相応しくない。
「すべて上手くいきますよ。」

 堤防を二人で歩いた。彼は両手に袋を抱え、鼻歌交じりに軽やかな足取りで私の前を歩いている。私も一袋運んだ。内容物の重さと海風で、指先がひどく冷たかった。彼と手を繋ぎたいと思った。
 行き止まりまで来ると、彼は袋を開いて肉片を海に撒いた。軍手の色が変わっていく様子を、初めて見るはずなのにどこか懐かしく感じた。

「俺たちの行為が魚の命を繋ぎ、人の命に繋がるのですよ。尊いとは思いませんか。」

 防波堤の先に真っ黒な海が打ち寄せて砕けた。夜の海はごおごおと騒ぎ、私の胸中をかき混ぜていた。彼はこれを尊い行為だと言うが、本当に正しい行いをしたのだろうか。いつか彼との平穏な暮らしの最中で、この夜の出来事を突然詰問されたら、と考えて、頭と指先から血が遠のくのを感じた。それは誰から?警察か、世間か、彼から?
急がなければと思う気持ちとは裏腹に、袋を開けようとする手がかじかんでうまく動かせない。夏だというのに酷く寒くて震えた。波風で滲み、ぐらつく視界。冷たい袋を掴む指先に、ふと温かいものが触れた。

「主、俺はあなたと共にあります。」

 赤く滲んだ軍手をはめた大きな手に、私の手は包まれている。顔を上げると、長谷部は揺らがぬ瞳でじっとこちらを見据えていた。あるじ、と言ったように聞こえたが、風の音が強くてうまく聞き取れなかった。

「あなたが行くのならば何処へでも。地獄の果てまでも、共に参りましょう。」

 彼は瞬きもせず、私の目の奥を見ていた。彼のそのどこまでも正しく、美しい目が苦手だった。この美しい瞳を見ているといつも、私の中に渦巻く汚いもの全てが白日の下に晒される気持ちになった。しかしこの瞬間、私は初めて、彼のどこまでも真直ぐな瞳に安堵を覚えた。私が何をしようと、どんな人間であろうと、彼は私から目を逸らさない。真っ黒な空はいつの間にか雲が薄くなっていて、黒い海に光が射した。

 ぼんやりと、しかし救いを求めるような主の瞳には俺しか映っていなくて高揚した。この世界でこの夜の一部始終を知る物は、雲間の月と俺と主だけだ。小さく震える人間の手にこの秘密は大きすぎたのかもしれない。手の中で震える主の手を、ゆっくりと撫ぜる。指先の冷たさに、まるで鋼のようだな、と思った。左手の薬指を恭しく摘んで、そっと口づける。

「明日は指輪を買いに行きましょうか。」

 主の顔には疲れと動揺が浮かんでいたが、徐々に安堵と諦めの表情へと移った。嗚呼、何て幸福だろう!この夜の記憶は、一生俺と主の間に暗く深い大河のように流れ続けるだろう。それでもこの秘密は俺と主を離さないのだ。俺たちは共犯者だ。裏切ることも離れることも絶対に許されない。愛しい主、何も心配ありません。死ぬまで俺が側にいますから。ああ違います、死んでも俺たちは地獄行きですよ、安心してください。ずっとお側にありますからね!

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