鯨骨生物群集

惚れた方が負け

 俺はその日の出陣で隙を見せてしまい、不覚にも傷を負った。他の刀剣たちに被害が出なかったことは幸いだった。傷を負ってしまったものの、今日も俺が最も戦果を挙げた。この程度の傷、死ななきゃ安いものだ。はやく主に俺の手柄をご報告したい。主に認めてもらうことだけが、刀剣男士としての俺の全てなのだ。はやく、はやく主の元に帰りたい。

 敵部隊の制圧を終え、本丸へと帰城するころには、本丸では既に手入れの支度を整えられていた。部隊を出迎えた時、俺の怪我を見て主は息をのんだ。彼女は戦果報告を聞いたのち、直ぐに俺の手入を始めてくれた。

「痛いよね・・・・。すぐに治すから。ごめんなさい、少し我慢して。」
 主は刀身の傷を見て、まるで自分の身体の痛みのように顔を歪めた。刀本体の損傷は、そのまま人の身体に影響する。痛みを感じはしても、刀本体の手入れをすればこの体は元通りになるというのに。彼女は物である刀剣本体も、与えられたこの身にも等しく心を配ってくださった。物も心も同様に大切に扱う方だからこそ、物の心を励起する審神者になれたのだ。きっと前の主のように俺を下げ渡したりなどしない。末永く俺をお側に置いてくださるのだろう。そんな主が誇らしく、お仕えできることが嬉しかった。
「主は本当にお優しい方ですね。前の主とは大違いですよ。」
 手入れをする彼女の手が、ほんの一瞬止まった気がした。
「・・・・長谷部の前の主たちだって、手入れはしてくれたでしょう。そんなことを言っては駄目だよ。」
 すっ、と場の空気が冷えるのを感じた。ああ、下手を打った。主を称賛したくて、喜んで欲しくて発した言葉は、俺の意図と反して彼女を不快にしたのか。俺はどうもこの人を前にすると頭が鈍る。そんな顔をさせたい訳じゃなかったんだ。口をついてしまった言葉を、必死で取り繕う。
「いえ!言葉が足りず失礼いたしました。・・・・ただ、俺は、刀だけではなく、あなたに与えられたこの身すら大切にしてくださることが嬉しくて、つい。」
 だから、あなたは俺にとって今、一番尊い方だと伝えたかっただけだ。そこに前の主の話を持ち出したのが不味かった。この話をすると彼女の機嫌が悪くなるのはわかっているのに、顕現した頃からの癖で、どうしてもこの話題に触れてしまう。
 縁側を背にした主の顔色は、逆光になっていて伺えなかった。彼女は一言「そう」とだけ応えた。
ああ困ったな。どうしたら、この気持ちをわかってもらえるのかな。この人は本当に俺を困らせるのが得意だ。しかし主の不機嫌のきっかけは俺だから、あまり強気にも出られない。何度話しかけても、主は「ええ」とか「うん」とか短い返事を返して、黙々と手入れを続けた。今日もせっかく生きて帰ってこられたんだ。もっと話がしたいのに、どうして上手くいかないんだ。
 
 
 
 俺と主は恋仲だった。最初は敬慕の対象だった。しかし、審神者業に就任して数年が立ち、結婚適齢期に差し掛かると、度々縁談が持ち込まれるようになった。それを見て、初めて危機感のようなものを覚えた。嫁ぎ先で主が不幸にならない保証などない。俺ならば、この方をお泣かせするようなことはしない。ならば俺でもいいじゃないか。そんな感情の底には、主が他所へ嫁げば、俺はまた捨てられるのか、という不安もあった。そんなことは無いと思いたかったが、主を信じきることができなかった。
 
 これが恋情かはわからなかった。ただ、主が俺以外の何物かと懇ろになる想像をすれば耐えられなかったのは確かだ。最後まで、公私ともに最もお側でお支えしたい。最早これは忠義ではなく、私欲だった。
 そこからは速かった。昼夜を問わず主を口説き落としにかかる俺を他の連中はやや呆れて見ていたように思う。主は最初こそ戸惑っていたが、半年が経つ頃には俺の求愛を受け入れてくださった。そして、俺は主を落としにかかっているうちに、気づけばこちらが絡めとられて恋に溺れていたようだった。持ち主に所有されたいという刀としての本能がそうさせるのか、俺は主に恋愛においても逆らうことはできなかった。
 
 
 
 手入れが終わると主はそのまま灰皿を持って庭へ出てしまった。俺が煙草は体に障るので控えて欲しいと言ってからはほとんど吸わなくなっていたが、俺と険悪な空気になった時にはこうして煙を吸いに行ってしまうのだった。おそらく苛々した気分を切り替えようとしているのだ。しかし、失言をした俺も悪かったが、恋刀である俺が帰ってきたというのに、素っ気なさ過ぎて悲しい。俺と煙草とどっちが大切なのですか、と今すぐ問いただしたいのに、嫌われたくなくてそんなことを言えたためしはなかった。
 そもそも俺の性格は昔からこうなのを、主だって知っているだろう。言いたいことが口を出る前にぐねぐねと曲がってしまうのだ。主もそろそろ俺という男をわかってくれてもいいのにな。せっかく帰ってきたのに、碌に目も合わせてもらえない。
 
 俺は血と泥を落とすために風呂と着替えを済ませて、主の私室に向かった。この頃は日が暮れるのも早くなっていて、宵闇がもうそこまで来ていた。初秋の風が通り過ぎて、湯上りの肩が冷える。俺は襖の前で立ち止まり、一つ咳払いをしてから声をかけた。
「主。長谷部です。入室して宜しいですか。」
「・・・・好きにして。」
 
 そろそろ主も機嫌を直している頃だろうかと伺ったが、この調子ではまだまだだろう。
 襖を開けると、麝香の濃い香の匂いが煙と共に溢れ出た。本当にこの人はいつも趣味の悪い香を焚く。主は座卓で読書をしているようだった。俺は煙の波を泳いで、主の背に立つ。
「主、」
「なに。」
 手元の本から目を離さないままの適当な返事。俺は喉に何か引っかかるような、じりじりとした焦燥を覚えた。
「先ほどは失礼いたしました。あなたとお話できるのが嬉しくて。軽率でした、お許しを。」
 顔を近づけて手元を覗き込んでみると、俺には何が面白いのかさっぱりわからない恋愛小説を読んでいるようだった。ああ、俺がいるのにこんなものにばかり構って。そんなもので遊んでいないで俺を見てくれよ。あなたの有限な時間を奪うもの全てが恨めしい。
 
 彼女の左のこめかみに鼻先を擦り付けると、柔い髪が煙草臭かった。どうせまた、俺に黙って部屋でも吸っていたんだろう。悪趣味な香を焚いて誤魔化したってすぐ俺は気づくのに、全然わかっていやしない。ただでさえ人の命は短いのに、どうして俺じゃなく、そんな煙なんかに命を喰わせてやるのか。俺には全く理解できない。鼻先を押し付けたまま、すんと息を吸った。煙草と麝香と主の匂いが混ざって、頭がくらくらした。ああ、はやく。俺たちには時間が無いんです、はやく俺を見てください、主。
「主、本丸の果樹園で立派な林檎が採れたのですよ。剥いて差し上げますから。一緒に食べましょう、ねえ。」
 彼女は耳元で話しかけられるのが擽ったいのか、首をすくめてから少しだけ顔をこちらに向けた。まだ視線は合わない。女なんて果物でも剝いてやれば機嫌を直すと思っていたのに、ああ、くそ。どうしろって言うんだ。俺はこの人の扱い方がまるで分らなかった。そっぽを向かないで。お願いだからこっちを見てくれよ。
「いいでしょう、お願いです。機嫌を直してくださいよ。」
 俺は主の背後から抱きしめるように左腕を腰に回して、本を持つ彼女の手に右手を重ねた。俺を無視する理由を邪魔された彼女は、とうとう返事をした。
「・・・・ねえ長谷部、どうして前の主と比べるようなことを言うの。どうして私のことだけ考えてくれないの。こんな気持ちになるのは嫌なの。悪気が無いのもわかってる。こんなことしか言えない自分も嫌。」
 やっと返事をしてくれて嬉しい。そのまま重ねた右手を握ってやった。可愛い嫉妬で拗ねるあなたも愛おしい。
「あなたは何も悪くありません、全て俺が悪かったのです。今はあなたが一番のひとですよ、あなただけですから。」
「それって、これからのことはわからないって言われているみたいで、嫌だ。」
 彼女はついに顔をこちらに向けた。口元はまだ不機嫌そうにむくれている。視線が絡む。やっとこちらを見てくれた!まだぐずぐずと機嫌の悪い彼女が少し面倒臭くて、いじらしくて、愛おしい。俺のことを見くびらないで欲しい。俺の目には今もこれからも、あなたしか映っていないのだ。大体あなただって俺以外の刀の話をするし、俺はその度あなたを誰の目にも触れないところに攫ってしまいたくなる感情を必死で隠しているのを、きっとこの人は知らない。
 人の意思が俺たち刀よりずっと弱いことを俺は知っている。今この時、俺を見ているこの瞳も、明日には別の小説や、他の何かに夢中かもしれない。
 
 俺たちの関係は全く対等じゃない。主従なのだから当たり前かな。俺ばかり必死になってご主人様の機嫌を取っている。俺が持てる全てで気を引く。ずっと俺だけを見ていてほしい。愛しい主で、俺の飼い主。俺はこの人に、首に輪っかを下げられているんだ。
「許してください、今のも俺が悪いですから。」
 
 俺はひとつキスをして、ああ、本当に犬みたいだと思った。彼女は何か呻いてから俺を睨んだ。全然恐くない。ほら、もう許してくださいよ。俺の言葉で拗ねて、俺の態度で喜んでしまう主の様子が愛おしい。彼女はもうとっくに機嫌が直っているはずなのに、まだ不服そうに低い声で呟いた。
「林檎、剥いて。お茶入れるから、離れてよ。」
 
 こうして俺は、今日も俺は小さな戦に勝利した。最後は、いつも彼女の見せかけの降伏で幕を下ろす。俺たちは全く対等じゃない。最初から俺はあなたに全部奪われてしまっているんだから、彼女が常に勝者なのだ。それに、敗戦したって渡すものなど、この身一つしかないのだ。

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