一
彼と出会ったころの話だ。そのころの私は慣れない環境で、日々の審神者業務を覚えることで精いっぱいだった。当時の主戦力は短刀と脇差であった。刀種同士の連携が取れておらず、打刀たちをうまく扱えていないことはずっと気がかりだったので、戦力強化のために打刀部隊を結成した。
その部隊で頭一つ抜けた活躍をしていたのが長谷部だった。顕現したばかりの彼は、自身の切れ味や価値に自信を持っているにも関わらず、刀剣男士としての経験が浅いため、戦場で思い通りの動きが出来ずに苛立っているように見えた。
彼は過去に含むところがあるようで、よく且つての主人への恨み言を口にしていた。自分の価値を語り、主である私に好かれようと刻苦する様子からは、彼の言い知れぬ焦りを感じた。彼の戦績は目覚ましく、戦では先陣を切り、ほとんどの出陣で勲を挙げた。当然とばかりに、主命を果たしたまで、と言うものの、言外で己の真価を訴え、認めて欲しいと言っているような気がした。しかし実際のところは、私欲のようなものは語らなかったので不明である。真意のわからない彼の言動に、ひりつく不安を感じた。それでも私は刀たちを使役する審神者の立場である。理解のできない彼の想いを少しでも汲み取りたいと、近侍に据えることにした。私は人間であるのに、刀剣男士よりも心の機微に疎いのかもしれない、と自嘲気味に思った。
みるみると逞しく成長していく長谷部を頼もしく思うと同時に、少し恐ろしくも感じていた。長谷部は主人である私を立てた物言いをするわりに、どこか見下しているようだった。口を開けば前の主への恨み言ばかり。もしかするとこの刀は、そもそも人間や主従をあまり信じていないのかもしれない。彼はいつも、私に対して、一度言葉を飲み込んだような、歯切れの悪い物言いをしていた。言外の態度から感情を読み取ることが苦手な私は、彼が何を考えているのかわからずいつも怯えていた。親しげな敬語で話すこの刀の期待に沿えないまま、漫然と過ごしているうちに、いつか寝首をかかれるのではないかと。
そして何より、彼の刃物じみた視線を恐れていた。目を合わせれば、見定めるような視線を送ってくる。瞬きもせずに獲物を見つめる蛇のようだと何度も思った。この目に見つめられると、これから捕食されるような、逃げ場のない気持ちになる。私は長谷部の目が苦手だった。
そんな状況が進展したのは、長谷部が修行を終えたことがきっかけだった。長谷部は、私への発言に物怖じしなくなった。長谷部は思ったことを素直に表現できるようになった。少しだけ我が儘になった私の刀を可愛いと思った。
今まで、私も長谷部もお互いにどこか怯えていた。嫌われて捨てられることが恐かったのだ。彼はまるで人間のような感情を持っていて、どこか私と似ていて、私の為に尽くしてくれる刀だった。似た者同士でお互い不安になって、ずいぶん遠回りしたが、やっとこの刀のことが少しわかった気がした。しかし、今までとは同じようで少し違う理由で、彼と一緒に過ごす時間に居心地の悪さを感じていた。
ある時、長谷部に万屋までの供を頼んだ。今までは、この刀に些末な用事を頼むことに後ろめたさを感じていたけれど、今の長谷部になら頼めるような気がした。供の用を頼むと彼は、荷物持ちでも何でもお申し付けくださいと、少し笑って了承してくれたのでほっとした。長谷部は私が萎縮しないように、なるべく優しく、親しげに話してくれる。彼が他の男士と話すところを見たことがあるが、こんなにも粗野な物言いをする刀だったのかと驚いたものだ。普段の姿を取り繕って、謙虚な従者然として振る舞う二面性は、私への思いやりと優しさの表れだと思う。そこに恥ずかしさを感じて、どうにも居心地が悪かった。
一通り買い物を済ませた後、本丸に帰る前に少し休もうと喫茶店に入った。長谷部の機嫌は良い。甘味が好きだったのかと意外に思って問うた。
「他の連中に邪魔されずに主の傍に置いてもらえるのが嬉しいんですよ。」
彼は臆せずに答えるものだから、私は気恥ずかしくて下を向いてしまった。何でも素直に言ってくれるようになったのは嬉しいが、明け透けに口に出すぎだ。俯いたままちらりと彼の顔を覗き見ると、嬉しそうにこちらを見ていたので、いたたまれずにまた目を逸らしてしまった。彼の忠実な臣下としての言動に、良くない勘違いしてしまいそうになる。私は動揺していた。
「俺を伴に選んでいただきありがとうございました。これからはもっと俺を頼ってくださいね」
私は少女のような浮かれた気持ちが喉奥へと下がっていくのを感じた。へし切長谷部という刀は、自分の価値を審神者に認めさせて、手放せなくさせたいのだ。そう思い直し、奮起して顔を上げると、そこには愛おしそうにじっとこちらを見ている目玉が二つあった。頭の中でメーデーが鳴っているのが聞こえる。喉が渇いて仕方なくて、アイスコーヒーをグイと飲んだ。冷たい液体が喉を通って落ちていく。カフェインとは不思議なもので、飲めば飲むほどに喉が渇く。修行から帰ってこちら、気持ちを真っ直ぐに言葉にしてくれるようになったが、そのせいで逆に彼のことがわからなくなってしまった。絡んだ思考を抱えたまま、私たちは本丸に帰った。彼は帰りのあぜ道でも相変わらず上機嫌だった。
「また俺を連れて行ってくださいね。次も、その次も。」
うん、と答えたけれど、こんなことが毎回続くなら心臓が持たないと思った。
二
主は物を捨てられない。それは物質だけではなく、感情にも言えることだった。一度愛着を持ってしまったものについて、飽きるという感情が無いらしい。主は物心つく前から読んでいるらしいお気に入りの児童書を、今でも大切に何度も読み返している。秋の空気が心地よく流れる夜、俺は主がいつも読んでいるその子供向けの小説に妬いてしまい、少々の嫌味を垂れていた。主は俺の言葉に不快そうにするでもなく、もう随分と手垢の付いた本の表紙を、大切そうに撫でながら語ってくれた。
「昔からこうなのよ。好きになったものはずっと大切にしてしまう。」
俺は主の「お気に入り」に埋め尽くされたこの部屋の居心地の悪さに酷い頭痛を感じた。いっそ部屋ごと燃やしてやりたいほどの衝動に駆られながら、こんなにも物を愛してくださる方のもとに顕現された巡り合わせに身震いした。この方の「唯一のお気に入り」になれば、彼女の人生から消されることは無い。死ぬまで下げ渡されることも飽きられることもないのだ。古いコンポから時代遅れの邦楽が流れていた。空気は澄んでいて、遠くの雲が途切れて月が顔を出した。タールの闇に覆われた窓外の景色は、月光できらきらと光っていた。この晩秋の夜の出来事を生涯忘れることは無いのだろう。
その日から、俺は主の寵愛を受けるために奔走した。戦では武功を上げ、主の側仕えとして些末な仕事まで全うした。俺は切れ味も美術品としての価値も申し分ないはずだ。しかし主は審神者の職に就くまで、武術の経験は疎か、刀剣や古美術の鑑賞は嗜んでこなかったお方だ。主の関心を引くためには、刀剣としての価値だけではなく、主の与えてくれたこの人の身と感情、己の持てる全てでもって、俺の価値を理解させてやらねばならない。
しかし俺の媚は主の目にあまり良く映っていなかったようで、些か警戒されてしまった。うまくいかない人の身での感情表現に苛立ちながら、俺は主の唯一になろうと躍起になった。主にとってのお気に入りの一つになる気などさらさらなかった。俺無しでは生きていけないほどに陶酔してほしい。今まで主を煩わす雑事を人知れず片付けてきたが、きっとそういうことで貴女に認めてもらうことは出来いんだろうな、とどこかで思った。
ある日、主から万屋への供を頼まれた。好機だ、と思った。俺はなるべく好感を持たれるような笑みを浮かべて、荷物持ちでも何でもいたしますよ、と恭しく言った。
用事を済ませた後、主は「少し休もうか」と喫茶店に入った。用事が終わったというのに、主が俺に時間を割いてくれるのが嬉しくて、皮膚の裏側がなんだかむず痒い。
主はと言えば、俺の機嫌を伺ってそわそわしていた。おそらく俺の媚の売り方が苦手なんだろうな、と薄々気付いていた。主は人間なのに、刀の俺よりも相手の感情を汲み取ることが苦手なのだろう。どうしたら真直ぐに俺の気持ちが伝わるのかな。
今までのやり方では上手くいかなかった。もっとはっきりと気持ちを伝えないとわからないのかもしれない。俺はなるべくわかりやすく、表情を和らげてやった。主の側に置いてもらえるのが嬉しいんですよ、と恐がられないように優しく声をかけると、主はいたたまれないような表情をしていた。
初心な小娘の所作を、俺は愛おしいと思った。
・・・・愛おしい?俺も人間のような感情を持ったものだ。主は刀の俺に対して、まるで人間の男に向けるような好意があるのだ。そして俺はそれを喜ばしく思っている。滑稽で思わず口元が緩む。いや、これは滑稽だからではない。喜びからくるものだ。耳まで赤らめている主が可哀そうだったので、俺が物であることを念押ししてやった。
主のどこかほっとしたような表情を見た時、俺の玉鋼でできた心臓は熱く打たれて引き延ばされたような心地がした。なんてざまだ。たかが小娘相手に、俺の価値をわからせたいだけだったのに、なぜこんなにも振り回されてしまうのか。この女の前では、機嫌を取って、少しの反応で狼狽えてしまう。
窺うようにこちらを見る主と久しぶりに目が合った。ただそれきりのことで、俺は気づいてしまった。ああ、俺は最早この人無しでは生きていけない。最初はただ主の側にありたいと、一番の刀でありたいと願っていただけだった。貴女の気を引くのに躍起になっているうちに、気づけば貴女が今何を考えているのか、そればかり気になってしまう女々しい男になってしまった。
人の子のころころと変わる感情は見ていて飽きない。それは面倒でもあり、楽しくもあった。しかし、それが俺以外から与えられたものであれば、と考えただけで、嫉妬で頭がくらくらした。貴女の笑顔も涙も俺の行動に起因してほしい。今まで俺の生きる世界は、血と錆と土埃、人の世の盛者必衰の儚さしかなかった。
それなのに貴女が現れてからというもの、俺の世界は貴女無しには存在し得ないほど染められてしまった。貴女に認められなければ、この人の寵愛を受けなければ俺の存在し得る価値などないと思うほどに毒され、麻痺していた。なんて罪な人、俺をこんなにしたこと、責任を取ってい頂けるのですよね?俺は貴女無しでは生きられないのだから、貴女も俺無しで生きていけなくなってしまえばいい。いいえ、主を見ていればわかること。貴女も最早俺無しで生きていけるはずがない。自分だけ逃げおおせようなどとは思うなよ。ああ、臣下の身でありながらこんなことを願うのは不敬だ。
三
長谷部が何を考えているかわからない。長谷部の思わせぶり言動が頭にもやをかけて、私はすっかりまともな思考ができなくなってしまった。まだ七月の初めてだというのに連日猛暑日が続いていた。夕暮れ時になってもいつまでも蒸し暑く、じめじめと湿った空気がまとわりついて煩わしい。暑さと長谷部のせいで私の頭は熱暴走でだめになってしまった。出口を見失った思考は迷路の中で霧散してしまう。
「主、聞いておられますか。」
長谷部から今日の戦果報告を受けながら、私はうわの空になっていたらしい。
「どうされたのですか。何か気に病むことでもあるのですか。」
何を忠臣のように。私がこんなにもぼやぼやしているのはこの刀のせいなのだ。いったいどういうつもりかと問い詰めたい気持ちをぐっと堪えて謝った。
「ごめんなさい、何でもないのよ。もう一度お願い。」
長谷部は一瞬考えてから、かしこまりました、と応じて再度戦果を述べた。隊長の長谷部は今回の合戦場でも一番功績を上げていた。どこの合戦場でも一番誉を取って帰ってくる彼に、そろそろ褒美に何か買ってやろうか。
「今回も長谷部が一番だったのね、偉いわ。何か欲しいものはある?好きなものを言って。」
そうですね、と呟いている彼は、こちらをじっと見ているようだった。ほとんど落ちかかった橙色の太陽が後ろから差していて、逆光になっていた。いつにもまして彼が何を考えているのかわからない。私は相変わらず彼の首のあたりをぼうっと眺めていた。
長谷部は一つため息をついた。
「主、お願いですから、」
勝手に溢れてしまったみたいに告げて、彼は距離を詰めてきた。私は驚いて身を引いた。その様子を見て、彼は少し寂しげに懇願した。
「お願いですから、俺の目を見てください。ねぇ、主。」
橙色はもう遠くの山に隠れてしまったが、死に損なった西日が部屋を照らしていた。遠くの空が薄い紫色に染まりつつある。日が落ちてもまだじっとりと蒸し暑く、高い湿度に息が詰まる。私は固まって黙っていた。背中に汗が伝って落ちる感覚がした。
「主」
私を呼ぶ長谷部の声は、まるで神に祈るようだった。
もうだめだ。追い詰められてしまった。最後に彼の目を見たのはいつのことだったか。どうして彼の目が見れなくなってしまったのか。その理由ももうわからなくなるほど随分前から彼と目を合わせていない。私の頭はすっかり馬鹿になってしまったんだ。もう逃げられないことを悟って、私は顔を上げた。
ずいぶん久しぶりに長谷部の目を見た気がする。彼の刀身のようにまっすぐで、研ぎ澄まされた刃のように鋭いその瞳が、私を捉えて離さない。夕暮れ時の空を溶かした硝子細工のような瞳に、喜びの色が混じっていく。彼はずっとこんなに優しい目をしていたのか。その澄んだ目には私しか映っていなかった。
「やっとこちらを見てくれましたね。いつまで俺から逃げるおつもりですか。もういいでしょう、いい加減に観念してください。」
すとん、と何かが落ちた音がした。今までずっと目を背けていたから、彼が何を考えているのかわからなかった。わからないから長谷部のことが恐かった。長谷部の目を見て、それは間違いだったと気づいた。
本当に恐かったのは、このもやもやと絡まった思考を全て引きずり出されてしまうことだ。自分の気持ちが、刀である長谷部への恋慕が暴かれることだった。私は何も見えていなかった。自分のことも長谷部のことも何一つ。私たちは、向き合わなければならない。否、長谷部はずっとこちらを向いて待ってくれていた。あとは私が踏み出すだけだった。もう逃げてはいけない。逃げられない。ゆっくり、一つ、息を吸った。
「お前は、私のことが好きなんでしょう」
口から出たのは、結局、退路を残したずるい言葉だ。でもこれが私の限界。声は、震えていなかっただろうか。
彼は少しばかり目を見開いて。それから、ふっと笑って、まったく素直じゃないな、と呟いた。双眼は愛おしそうに柔らかな弧を描いていた。
「今更気づいたのですか。俺はずっと待っていたんですよ。」
それから私の右手を恭しく取り、自分の刀の柄へ、そして頬へと触れさせた。
「この刀も、この身体も、貴女の与えてくれたこの心も。俺の全ては貴女の物だ。」
長谷部は瞬きもせずにじっとこちらを見ていた。その瞳はどこまでも澄んでいる。
「俺は貴女の全てになりたい。貴女の好きなあの小説にも、あの日見ていた映画にも、貴女の愛するあの曲にも、あの日折れたあの刀にも。貴女の感情を動かす全ての由来が、俺であってほしい。主、俺にその権利をください。」
彼は一息に言い終え、ふっと息をついた。右手からは自分より少し高い体温が流れてくる。手の甲に彼の手袋がじっとりと張り付いているのは、きっとこの暑さのせいだけではないのだろう。西日はもう死んでしまった。アオバズクの声が夜を告げている。私はゆっくり口を開いた。
「褒美としては贅沢すぎる願いだと思う。」
いつも強気な長谷部の目が少し揺らいだ気がした。長谷部はいつからこんなことを考えていたのだろう。彼の目を見ていたら、最早私は彼無しで生きられないほど深いところまで沈んでいたことに気付いた。彼のいない人生などありえない。そうだった。私は一度好きになってしまったら最後、死ぬまで愛してしまう質なのだ。ああ、落ちる。この刀には負けた。逃げようなんて思わないでね。勘弁してくれと言われたってもう離さない。
私は長谷部の頬を撫ぜて、笑った。
「褒美じゃなくて、これは私の願い。ずっと、死ぬまで、一緒にいてね。」
彼は柔く笑って、それから幸せそうに私の手を握った。背中に桜が舞っている。
「あなたの願いとあらば。もう俺から逃げられると思わないでくださいね。」
あ、捕まってしまった。似た者同士の一人と一口は、地獄の底まで絡まり合って落ちていくのだ。
了
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